104「相模湖/津久井」

20110123神奈川県相模原市にて撮影

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◯白看の種類:104「相模湖15Km/津久井5Km」(添架式・歩道橋添架)

 

◯設置されている道路:国道413号線(旧神奈川県道55号相模原与瀬線)

 

◯概要:こちらは神奈川県相模原市。市の北部を横断する国道413号線、橋本と津久井湖を結ぶ線のちょうど中間地点、城山町の中心街に存在する白看である。「久保沢第1歩道橋」というこの周辺の地区名から名付けられた歩道橋への添架である。
私が白看に興味を持ちだした初期である2011年の調査ということで、あまり写真を撮っていないのが悔やまれるが、アップの写真からわかるのは背面の補強鋼が新しいタイプの“高リブ”であるようだ。白看の状態だが、盤面のコーティングの仕様なのか、青色、赤色の塗料は退色し、灰色に変化している。
なお、写真右側に歩道橋の橋歴板(建造年とか建造業者などが彫られてあるプレート)があるのだが、こちらも残念ながら写真を撮っていない。しかし、あおまるさんの「北相迷走記」によると「1967年3月完成」とあるので、もし歩道橋の完成した当初から白看も設置されているのならまもなく50年を迎えるということになる。
神奈川県も数多くの歩道橋添架の白看が残っていたのだが、急速に数を減らしつつある。私が取材を開始した2010年ごろでも遅かったくらいだ。貴重となりつつある交通遺産として末永く残ってほしいものである。

 

ストリートビュー

 

◯場所はこちら

103-B「横川/祁答院」

20141124鹿児島県さつま町にて撮影

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◯白看の種類:103-B「横川↑27or29Km/祁答院→6Km」(複柱式)

 

◯設置されている道路:薩摩川内市市道(鹿児島県道50号宮之城牧園線旧道→国道504号線旧道)×薩摩川内市市道(鹿児島県道51号宮之城加治木線旧道)

 

◯概要:以前紹介した103-C「祁答院」。

記事のアップが終わり、その後白看マップの整理を行っている際、まさか対面にはないよねとストリートビューを開くと見覚えのあるお姿が。(追記:どうやらまたストリートビューが埋め込み出来るようになっている。ま、当然なんだけど…助かります。。)

まさかとは思ったが、どうやら現存しているようだ。なんで最初に行った時(すなわち2006年)に気づかなかったんだよ自分のバカバカバカとは思ったが、数少ない九州の残存白看ということなので、すかさず調査に向かうことにした。

場所は鹿児島県さつま町。鹿児島県を人間の足に見立てるなら、右足の太もも辺りにある(極めて雑だが)のがさつま町である。しかし現場に到着すると、支柱しかない。どうやら盤面は朽ちて落下したようだ。現行のストリートビューが撮影されたのが 2013年12月ということで少し遅かったかーと思ったが、こういう場合、大抵盤面は改修されずにその辺に落ちていることが多い。やはり公共物である道路標識を簡単に一市民の判断で捨てるのにはなかなか抵抗があるのだろう。

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というわけで、あっさり盤面は確保された。写真を撮影するためにひっくり返したり、動かしたりしたが、現状の通り戻したので今もこのような配置になっていると思う。

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主要道路たる面目躍如か対面の103-C「祁答院」と同様に大型盤面で、裏面は補強鋼が2枚渡った「二型」である。ストリートビューを見ると下側の補強鋼はもともとなかったようなので、上側の補強鋼、とくに右側が限界に達し落下してしまったのだろう。

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表示されている地名は「横川」と「祁答院」。横川は九州自動車道が通る鹿児島県中央部(足に見立てると下腹部のあたり)にある町で、現在は国道504号、県道50号牧園薩摩線を経由して至る。盤面の劣化により標識板の上下1/5ずつほどが失われていて、横川への距離が微妙にわからない。27か29だと思うのだが…しかし対面が103-Cなのに、こちらが103-Bなのは何故だろう。表示に「宮之城5Km」などと入っても良さそうなものだが…行政区域的にはここは旧宮之城町なので避けられたのか。。よくわからない。

しかし、小さな発見だが白看調査には灯台下暗しという言葉がつきものだと改めて実感させられた1枚であった。

 

◯場所はこちら

103-B「宮内/中川駅」

20101219山形県南陽市にて撮影

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◯白看の種類:103-B「宮内↑5km/中川駅←6Km」(単柱式)

 

◯設置されている道路:山形県道5号山形南陽線×山形県道238号原中川停車場線

 

◯概要:ここは山形県南陽市、市街地から吉野川に沿って走る山形県道5号山形南陽線を北へ8キロ。国道13号羽州街道方面へと接続する県道238号原中川停車場線の分岐地点にこの白看がある。最大の特徴は何と言っても支柱が木製であること。木柱白看といえば、長野県にかつて存在した103-B「長野/柏原」しか知らない。現役はおそらくここだけかと思われるため、非常に貴重な一本である。前述の長野の白看も裏面は補強鋼なしの“鉄板一枚もの”だったので、この白看も同様ではないだろうか。撮影当時は取材が甘く撮影していなかったのが悔やまれる。おそらく材質は琺瑯ではなさそうだが、琺瑯のような塗料の“盛り”と、「宮内」を「MIYACHI」と表記している点、また妙に太った(「宮」の字など)フォント、そして数字の端正なレタリングの雰囲気からもかなり早い時期に設置された白看ではないかと推察される。

この白看は以前からよく知られており、多くの方々がレポートされている。私より3年前に取材されているbrixさんの「白看ブリグ」によると、かつては上記写真の手前にあった木の側に立っていたことがわかる。当時からバインド線で緩く木に巻き付けられ、標識の盤面も傾いて落ちそうな状態であったことを考えると、救ってくれた(地元の)人には感謝至極である。(なお、現在のストリートビューを見たところ、県道238号側の取り付け道路が拡幅されている。もしかして、その際に木は切り倒されたのかもしれない。もしそうであれば、なおさらこの白看が残ったことは嬉しいことである。)

そして、昨年の夏には@o_ishiguroさんがTwitterにて現状をレポートしてくださっている。写真を見ると少し倒れ始めているようだが、このまま撤去されずに残っていきそうである。こうやってデジタルの力で白看の定点観測が出来る、良い時代になったものだ。

 

◯場所はこちら

 

103-B「髙知/松山」

20141230愛媛県砥部町にて撮影

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◯白看の種類:103-B「髙知↘116Km/松山↖11Km」(単柱式)

 

◯白看が設置されている道路:砥部町道供養堂四辻線(愛媛県道10号松山砥部内子線→国道379号線旧道)×国道33号線

 

◯概要:前のブログ更新から1か月。すっかり時間が開いてしまった。2015年最初の更新は、前回ご紹介した103-C「松山」と同じ国道379号線旧道にある白看。昨年の年末、上尾峠へのアタックの際に見つけたのだが、なぜこんな場所に残っているのかと言いたい現役片道2車線国道との交差点に存在している。表示されている地名は高知と松山。大都市であるのが非常に貴重だ。高知の「高」はいわゆる「はしごだか」になっているのも期待を裏切らず味わい深い。

さて、この白看がある供養堂交差点、昭和50年代初めまで、かつての愛媛県道10号松山砥部内子線と国道33号線の分岐地点であった。そのためにこのような表示の白看が設置されたと思う。白看の向かい側の土地は現在空き地になっているが、かつてはガソリンスタンドがあったようである(それ自体、この交差点が重要なものだったことを表している)。さて、その側に立つ電柱の根本にはこのような石柱があった。

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左は「久万山道」、右は「砥部(道?)」とある白看と同様の標識だろう。少し埋められているのだろうが、それにしては小さすぎない??

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表中は愛媛県設置の単柱式白看の特徴である“3枚シール”の「愛媛県」表示。
また、背面の補強鋼は「二」型。いずれも上尾峠にかけての白看群に共通の特徴なので、同時期に設置されたものかもしれない。

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白看はもちろんアスファルトを基礎としてしっかり埋められているが、隣?もたれかかっている電柱ともしっかり結ばれている。一蓮托生、このまましっかり残っていてほしい。(ちなみに私の事前の調査では、ネット上を含め一切見つけることが出来なかった。こんな町中にあるのに…逆に目立たなかったのか)

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◯場所はこちら

103-C「松山」

20130717愛媛県砥部町にて撮影

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◯白看の種類:103-C「↑松山14Km」(単柱式)

 

◯設置されている道路:砥部町道大南大岩線(愛媛県道10号松山砥部内子線→国道379号線旧道)

 

◯概要:愛媛県は県庁所在地の松山を中心に比較的よく白看が残っている。その松山市から焼き物で有名な砥部町を経由し、白壁の街並みが残る内子町へと至る国道379号線の旧道に残っていたのがこちらの白看。支柱が角柱で、「愛」「媛」「県」と3枚のシールが貼られているのが、愛媛県の単柱式の白看の特徴だ*1。なお、盤面は拡大していない標準サイズである。また、余談だが白看に使われている書体では松山の「松」のつくりは必ず「ハム」となっている。

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裏面の補強鋼は「二型」。支柱を抱き込むように取り付けられた金具を留めているビスはきらりと光っていて状態は良さそうだ。右側には管理シールだろうか、何か貼られているような痕があるが、今となってはよくわからない。

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この白看が設置されてある旧道から、現在、国道に指定されている新道へとルートが切り替えられたのは昭和50年代初頭のようである。一方、国道への昇格が1975(昭和50)年4月なので、このタイミングで切り替えが行われたのかもしれない。さらに国道379号線を南下した旧広田村との境界にある上尾峠にも数多くの白看が残っているので、またレポートを行いたいと思う。まさに愛媛を代表する“白看街道”である。

 

◯場所はこちら

103-C変「国道1号(第2京浜)」

20110410神奈川県横浜市にて撮影

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◯白看の種類:103-C「←国道1号(第2京浜)0.8Km」(高架橋添架)

 

◯設置されている道路:横浜市道×首都高速神奈川1号横羽線子安出口

 

◯概要:震災の後、仕事がちょっと一段落して、アクアラインを渡って千葉方面にドライブに行こうかと車を走らせていた時に偶然に見つけた白看。場所は横浜市神奈川区の子安。子安といえば、新子安駅前の103-Bや、今は撤去されてしまった103の2があって、ちょっとした白看集中地帯である。表示されている国道1号へは、新子安の103-Bの記事で出てきた新子安橋を経由する。
この白看が取り付けられている高架は首都高速神奈川1号横羽線。開通したのが1968(昭和43)年7月ということなので、この白看が取り付けられたのもおどらくそのタイミングではないだろうか。盤面に関して言えば、日差しも雨も防げる場所なので非常にコンディションは良さそう。また、「号」「第」「京」「浜」などの文字のフォントが非常に独特である(公団ゴシックなのか?)。
なお、この白看には英語表記がない。基本的に英語表記がないものは白看でも亜種扱いとしているが、よく見ると距離表示の欄の「キロメートル」が「km」と小文字である。白看ではここは「Km」と大文字にして書くので、やはり亜種とカテゴライズして問題なさそうだ。

 

◯場所はこちら

103-C「生出」

20141102岩手県陸前高田市にて撮影

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◯白看の種類:103-C「←生出7Km」(複柱式)

 

◯白看が設置されている道路:陸前高田市道(国道343号線旧道)×陸前高田市道(岩手県道246号世田米矢作線旧道)

 

◯概要:旧道なんかを走っていて、不意に未知の白看に出会うと得も言われぬ興奮が全身を襲う。この日は、前日に仙台行われた友人の結婚式のついでに、飛行機までの時間を最大限に使い岩手県南部の“白看詣で”を行っていた。一関駅で借りたレンタカーは北上駅で返却予定。しかし奥州市水沢の白看群の撮影も控えている中、19時過ぎの飛行機に乗るためには北上到着の時間が怪しくなっている。しかしながらいつもの性で国道343号線を離脱、陸前高田市矢作町の旧道に突っ込んでいった。中平川沿いの片側一車線の道をしばらく行くと見覚えのある赤茶けた鉄板に二条の補強鋼。間違いない!

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高鳴る鼓動を抑えなどというと大げさかもしれないが、前を回るとビンゴ。かつての幹線に設置されていた大きめのサイズの103-Cである。その証拠に複柱式である。錆はひどいが取り付けはしっかりしていて、未だ案内の役目は果たしているようである。表示されているのは「生出」と書いて「おいで」。前述の中平川の支流、生出川沿ってある木戸口、夏通、清水、二田野、三ノ戸、清水川、的場の集落をまとめて生出地区というようだ*1。この白看で示されているのはかつて小学校もあった二田野集落までの距離だろうか。

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支柱には設置者を表す「岩手県」のシールも健在だ。なお、この区間が旧道化したのは割合に遅く、国道343号線の方は昭和50年代後半、県道246号線の方は平成8、9年頃のようである。背後にある208「学校、幼稚園、保育所等あり」とともに末永く残ってほしい白看である。

 

◯場所はこちら(Googleのマイマップの仕様変更でストリートビューが表示できなくなっています。また機能が戻ったら載せますのでご容赦を。)

白看前史(3)

  • 道路警戒標及道路方向標二關スル件(内務省令第二十七號) 1921年11月

1921(大正11)年11月9日は日本の道路標識史上記念すべき日となった。この日、初めて全国的に統一された道路標識についての通達が内務省から出されたのだ。「道路警戒標及道路方向標二關スル件」という名称で、同日に発行された「官報 第3083号」に掲載された。以下のように国立国会図書館のデジタルコレクションで見ることが出来る*1

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以下に全文を転載する。

内務省令第二十七號道路警戒標及道路方向標二關スル件左ノ通底ム
 大正十一年十一月九日 内務大臣 水野錬太郎

第一條 道路ノ屈曲部、坂路其ノ他交通上危險ノ處アル箇所二對シ必要アル場合二於テハ道路警戒標ヲ建設スヘシ 
第二條 十字路、丁字路其ノ他ノ箇所ニ對シ交通上必要アル場合ニ於テハ道路方向標ヲ建設スヘシ
第三條 道路警戒標及道路方向標ヲ建設スル場合ニ於テハ別記様式ニ依ルヘシ
第四條 道路警戒標ハ第一条ニ規定スル箇所ノ前後八十メートル乃至百四十メートルノ地點ニ於テ道路ノ方向ニ面シ左側路端ニ之ヲ建設スヘシ但シ市街地ニ在リテハ相當其ノ距離ヲ短縮スルコトヲ得
第五條 道路方向標ハ道路ニ面シ路端ニ之ヲ建設スヘシ
附則  本令ハ公布ノ日ヨリ之ヲ施行ス


 「道路警戒標」は現在の警戒標識である。意味としては交差あり、右カーブあり、左カーブあり、上り坂あり、下り坂あり、踏切あり、学校ありの7種。三角板が支柱の最上部に設置され、その下に警戒標が取り付けられていたようである。また本文中の備考にあるが、三角板は赤色、警戒板は黒色で、文字やマークは白色で描かれることになっていた。なお、禁止標識に類するものは制定されなかったので、1899(明治32)年の「制文制札令」における通行止榜標が引き続き使用されたようだ。

 

一方の「道路方向標」は現在の案内標識にあたり、板面は白色、文字や矢印は黒色で表示されていた。これまであまり指摘されていないと思うのだが、構造が特徴的で、理解するのに少し時間を要するのだが、十字路の場合は標識板を十字に組み合わせ三叉路の場合はT字に組み合わせて使用していたようだ。つまり進行方向から見れば、官報の図のように見えるのだが、真ん中に左右の交通用の標識板が50センチほど出ているので、視認性はどうだったのかなという感じがする。またこのような形態だということは十字路の場合は交差点の真ん中に設置されるのが前提だったのだろうか。

 

さて、愛好家に「大正標識」として知られる「道路警戒標」。制定から88年を経た2009(平成21)年にネット上でその残存が発表され、大きな話題となる。2009年1月19日 2:05に「マフ巻隧道BBS」に書き込まれた「メタルほら吹き」さんの投稿である。

はじめまして。いつも楽しみに見せて頂いております。有難うございます。 10年来気になる高松市塩江町、旧塩江街道の超旧標識です。 http://map.yahoo.co.jp/pl?type=scroll&lat=34.17631805&lon=134.07640216&sc=5&mode=map&pointer=on&home=on&hlat=34.339475&hlon=134.04935389 白看どころか・・・!(もう有名でしたらすみません)今後とも宜しくお願いします。

多くの人たちがこの書き込みをきっかけに塩江詣でに向かったのは言うまでもない。全国的にもかなり有名になった。ご多分に漏れず私も2013年1月5日訪問してきた。というわけでここからは文化財級?の価値ある大正標識のリポートをお届けする。まずは全景をご覧頂く。繰り返すが、博物館などに飾られているわけではない、現役であるということを強調したい。

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まず、各パーツのアップをご覧いただこう。三角板部分はご覧のとおり。真ん中の白い部分に5点ビス止めされている。裏面はぴったり電柱にくっついていたので良くわからないのだが、中央の3つは支柱に、左右の2つは補強板を留めているのだろうか。

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警戒標部分はこちらであるが、官報に出ていた見本とは違う。「上り坂/下り坂」の表示に似ているが矢印ではなく、「屈曲多し」とある。大正標識には各県オリジナルの様式で作られたものも多く、これもその一つなのであろうか。支柱には3点のビスで留められている。このように標識板の上から留めるのは、ごく初期の白看にも見られる特徴だ。

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設置から少なくとも70年近く経過している標識なので、もちろん相当の傷みはあるのだがよく現場が保たれているのではないか。下の写真は警戒標の裏面だが、文字が書いてある表面の板面と、その後ろに補強板とも言えるべきもう1枚の鉄板が合わさっているのがわかる。「屈曲多シ」と「百米先」の文字の部分にそれぞれ2つずつビス留めがある。裏面は写真が撮れなかったが、三角板も同様の構造になっているものと思われる。

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現在は国道193号線に指定されてある塩江街道は「高松の奥座敷」と言われる塩江温泉への道として古くから開かれていたようである。この道は標識が設置されている先で香東川を岩部橋で渡る。「屈曲多し」の意図するところはこの橋に至るカーブ(少し下の写真でも見えている)のことであろう。なお、塩江温泉へは並行して琴平電鉄塩江線が高松市内から走っていた。この路線は1941(昭和16)年5月に不急不要線とみなされ全線廃止、線路などは鉄材供出に充てられたことを考えると、この標識が残ったのも奇跡的なことかもしれない。なお、標識自体はもとあった場所から数十センチ移動している。いしぐろ(@o_ishiguro)さんの現地調査によると電柱工事の際に移動させられて紐と針金で新しい電柱に縛り付けられたのだとのこと。本当に、今まで残っていてくれてありがとう、という気持ちになる。

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◯場所はこちら


より大きな地図で 白看マップ を表示

 

さて、この「道路警戒標及道路方向標二關スル件」で制定された8種の道路標識は昭和17年に「道路標識令」として大改定されるまで、およそ20年間にわたり使用されるわけだが、予算不足もあり整備普及は進まなかったようである。以下の2つの論文がその状況を表している。

 さて現行の警戒標、方向標が現在何の程度普及して居るかと言ふに、遺憾ながら其の普及成績は甚だ芳しくない。また、その設置ある府縣の中でも、其の形式や記載方式などは、是亦思ひ思ひであって(谷口松雄『道路の改良』「道路標識の改正に就いて」19巻11号 p.48-51、1937年)

其の種類は至つて少なく、僅に七種の警戒標識と一種の道路方向標を定めているに過ぎない。自動車が未だ發達しなかつた時代に於いては勿論之で宜かつたのであるが、今日の様に自動車交通が頻繁になつては、之の程度の標識で圓滑に自動車交通を整理して行くことは不十分なので(金子源一郎『道路:road engineering & management review』「道路標識(道路標識委員會報告)」p.26、1940年

 というわけで、徐々に増えて行く自動車交通を捌ききれなくなったようで、官民合わせて道路標識の研究が始まり、一部は実用に移される。その成果が私たちの大好きな「白看」につながっていく。というわけで次回は「道路標識百花繚乱時代」とも言える昭和初期の状況をご紹介したいと思う。

*1:官報のイラストは白黒だが、サイト「道路交通関係条約集」さんのようにきれいにイラスト化されている方もいらっしゃる。色がつくだけでも当時の雰囲気はビンビンに伝わるのでぜひご覧頂きたいと思う

103-B「佐敷/大野」

20100208熊本県芦北町にて撮影

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◯白看の種類:103-B「佐敷↑12Km/大野←4Km」(複柱式)

 

◯設置されている道路:芦北町道天月線(熊本県道27号芦北球磨線旧道)×芦北町道天月祝坂線

 

◯概要:これは珍しい「デザイン間違い白看」。間違いがどこかおわかりだろうか。…それは距離表示と地名表示の位置が逆である。1段目直進、2段目左折の白看は最近ご紹介した例ではこのような形が普通である。地名の英語表記などにはエラーが頻発する白看であるが、デザイン自体の間違いはそうそうないかと思われる。(また地名のアルファベット表記が文字に対応するように分かち書きされているのも珍しい)

 

さてこの白看があるのは熊本県の球磨地方、太平洋側の芦北町佐敷と球磨川沿いの球磨村神瀬を結ぶ熊本県道27号芦北球磨線の中間地点、旧道沿いの交差点にある。この白看、支柱に設置の日付が書いてある。1954(昭和29)年に佐敷大野線として路線認定されたこの県道、当初の終点はこの交差点付近、芦北町の天月だった。その後1971(昭和46)年6月に球磨村まで路線延長され、現在の名称となった。ちなみに現在の本道であるバイパスが出来たのは、1979(昭和54)年3月頃だったようだ(バイパスの才木橋の橋名板より)。

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この白看の支柱には設置の日付が書いてある。「昭和45年八月」は路線延長される直前。標識面が球磨村側を向いていることからも、このタイミングに合わせて設置されたと考えるのが妥当だろう。ただし、1963(昭和38)年10月の空中写真を見ると球磨川まで車道が伸びているようである。かなり早いうちに車道はあったが、県道認定が遅れたということだろうか。


ストリートビューで見ると裏面は「二型」のようだ。白看後期(白看が設置されたのは1971年11月の改正まで)に設置されたにしてはかなりのオールドスタイルである。

 

地理院地図

 ◯場所はこちら


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101「出水市」

20100208鹿児島県出水市にて撮影

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◯白看の種類:101「出水市」(単柱式)

 

◯設置されている道路:鹿児島県道374号出水高尾野線

 

◯概要:この市町村を表す101「出水市」は平成の大合併以前の旧高尾野町との境界に立っている。2006(平成18)年3月に旧出水市出水郡高尾野町、野田町と合併して新設の出水市となっている。高尾野側には標識はなかったが、最近まで同様の101があったのかもしれない。設置されている鹿児島県道374号出水高尾野線は1993(平成5)年3月に路線指定されている。それまでは1958(昭和33)年11月に指定された鹿児島県道112号餅井出水線だった。 

設置されている場所が面白く、101なのに交差点の中だ。しかも進行方向からは少し路地に入った場所にあり、本道を走る運転手に対しての視認性はそんなによくないように思える。実際の境界線はこの交差点より手前(高尾野側)にあったようだ。路側には立てられなかったのだろうか。

標識板はすっかり錆びきっており、真ん中の支柱に取り付けられた部分に由来する傷みが見られる。初回の取材が2010年ということでしつこく写真を撮っておらず裏面などの状態がわからないのが残念だ。ただ、ストリートビューでも確認できるように2013年3月現在、健在のようだ。また調査に行かないといけない。

 

ストリートビュー

◯場所はこちら


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