特別連載:白看前史(1)

道路標識は道路の“顔”であると同時に道路の“心”でもある。
(技術書院『交通工学23 道路標識』序、 1970年)

これは私の道路標識研究のバイブル、技術書院の交通工学シリーズの第23巻、「道路標識」*1 の序文に書かれた一節である。何か良い感じのことを言ってる雰囲気であるが、今一つ要領を得ない。続きを読んでみよう。

道路標識を樹てる心は道路を造る心にそのまま通じるものであり、道路を造ることの意義は、道路標識の正しい設置によってはじめて十全のものとなるといってよいであろう。したがって、道路標識を樹てることは、道路を造ることと同じように、否それ以上に慎重でなければならない筈のものであるにもかかわらず、未だともするとこれを軽んずる傾向が伺えるのは残念なことである。(前掲書)

かなり道路標識に対するアツさを感じられる文章*2であるが、存在感のなさに対する無念さみたいなのも滲む。確かに道路趣味の世界においても、道路標識を愛好するのは本流ではないのかもしれない。やはり最初に目が行くのは道路それ自体や、橋やトンネルなどの「大きな」構造物であろう。どちらかと言うと道路標識はおまけみたいな感じかもしれない。 

それでも白看と呼ばれる旧型の案内標識については私のような変わり者のブログをはじめ、いくつかの老舗サイトもあるし、Twitterなどでも新たに情報を発信されている方もいらっしゃるので、何か心を震わすものはあるのだと思う。しかし残念ながら昔の道路標識についての情報や資料は極めて少ない*3。ニッチな世界であることは自覚しているが、ニッチなゆえ発見の喜びもあるということで、ここは一つ道路標識の進化と発達の段階をひも解き、みなさんにご紹介したいと思う。

 

  • 明治時代までの道路標識

道路標識の原型は「道しるべ(道標)」である。道路の辻や街道の分岐点などに設置され、主要地への距離や方向を表示したものだ。今でいうところの案内標識と全く同じ役割のものである。 各地域ごとに、郷土史的なアプローチをされているサイトはたくさんあるので参照されたい。宮崎県の津花峠に建てられた道標はこのブログでも紹介した。ちなみに昭和に入ってからも石造の道標が作られることはあったみたいだ(HP「相武電鉄上溝浅間森電車庫付属資料館」)。

 
それでは今で言うところの「警戒標識」や「規制標識」の歴史はどんな感じだったのだろうか。明治の初期に官公署は立て札を使って道路利用者に通行の禁止や制限を指示していた。これらの立て札のことを「制札」と呼んだそうである(道路交通問題研究会『道路交通政策史概観 資料編*4』p.541、2002年)。

 

そして1899(明治32)年6月、ついに道路標識に関する最初の統一法令とも言うべき通達が出される。

  • 「通行止の制札制文令」(警視庁第二部長)1899年6月

残念ながら私はこの警視庁第二部長が出したという通達の原典を、今のところ見つけられていない*5。どうしても孫引用になってしまうのが避けられないが、その時に統一された制札の様式は以下の8種類だった(黒文字で木製であった)らしい。通行止めの理由としては道路の幅員の狭隘、橋梁脆弱、急坂、道路工事、交通頻繁などが挙げられていた。今で言う「規制標識」のはしりであるが、その効力は東京府下に限定されたものだった。以下に再現してみた。高さなどの諸元はわからないが、おそらくこのような感じだったのではないだろうか。

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 なお、日本で最初の自動車は1898(明治31)年、フランス・ブイ機械製作所の技師、ジャン・マリー・テブレが持ち込んだものである。同年1月には築地から上野までデモ走行したという新聞記事が残っている(高田公理「自動車と人間の百年史」p.18、1987年)。この通達が出されたのはその翌年なので、自動車というものは殆どなく、制文の表示にあるとおり、専ら牛車や人力の荷車などを対象とした道路標識だったと言えるだろう。

官公署ノ榜示シ若ハ官公署ノ指揮二依リ榜示セル禁條ヲ犯シ又ハ其ノ設置二係ル榜標ヲ汚瀆シ若ハ撤去シタル者

その10年後、1908(明治41)年9月に出された「内務省令第16号 警察犯処罰令」第2条26号では、榜標(道路標識)を汚損したり勝手に撤去する者は拘留または科料に処せられた。これで制札は法的な位置づけを持ったということになる。

 

さて、この間も自動車はいわゆる特権階級を中心に普及が広まっていた。1911(明治44)年には日本で最初の自動車クラブ「日本自動車倶楽部(NAC)」が誕生している。 これは数少ない自動車所有者の交流機関であり、また運転マナー向上の啓蒙や自動車旅行者の便宜を図るのがその目的だったようだ。1912(大正元)年日本で最初の「警戒標識」を設置したのがこの会であった。

  • 「日本自動車倶楽部の道路標識」1912年12月
「自動車乗用者のために建設されたる日本に於ける最初の道路標」    将来日本自動車倶楽部に於て設立廿五年の祝典を擧ぐるに當り大正元年十二月二十日は其最も紀年すべき日として記録中に特筆大書きせらるゝに至りや必せり(日本自動車倶楽部『自動車』1巻2号 p.15-17、1913年)

ものすごく大げさに書いてあるが、それ程までにこの道路標識の設置がエポックメイキングなことだったのだろう。この日本自動車倶楽部は会報を毎月発行していて、この事業の経緯が細かに載っているのでご紹介したい。

道路標 道路の險危なる箇所には目標となるべき標札を建てゝ自動事乗用者の便を計るべしとは委員會に於て決議せられたることに現にケージエー、ホラ氏は過日佛國ゼネラル、オートモビール協會の採用せる道路標に訂正を加へ之を日本に適用せんとの立案を委員會に提出せり委員會は直に之れを可決しホラ氏に嘱して目標を造らしめ第一着として神奈川縣下の諸所の道路に建つる事と為りたり其箇所を示せば次の如く、東京宮ノ下間、横濱鎌倉間、横濱、金澤、逗子、三崎間等にして神奈川縣廳も此の目標建設及び之れが保護の為に十分の力を盡さるゝことを約されたり、此の如く目標建設の議は倶楽部内外の賛助を得て着々其の効を奏し來る拾貳月末までには前記の道路に目標備へらるべし尚ほ目標の所在を明記したる明細表は十二月初旬までに調製し倶楽部會員一同に配付の豫定にして會員外の人たりとも自動車又は自動運送車の所有者は請求に從ふ各一部を無代送呈することゝせり(日本自動車倶楽部『自動車』1巻1号 p.13、1912年)

自動車文化の初期において、諸外国でも道路標識の設置は自動車クラブによって行われることが多かったようだ。確かに自動車を利用する自分たちのために自分たちが道路標識を設置するというのは動機として非常に理解できるものだ。中心となって設置を進めた「ケージエー、ホラ氏」とはチェコ人出身の技師、カレル・ヤン・ホラでチェコで初めての日本学者となった人物だそうだ。(HP「チェコスロバキアにおける日本美術」

さて、自動車乗用者のために初めて設置された道路標識が設置されたのは1912(大正12)年12月20日のことである。さぞかし賑々しく記念式典でも行ったかと思えば、

天候雨を帯び北風凛冽膚を刺し加ふるに時恰も冬季休日に近づき業務多忙のため來り會する者甚少なかりしは遺憾の極みなりしも(日本自動車倶楽部『自動車』1巻2号 p.15、1913年)

というわけで、意外にも参加者は少なかったようだ。それでも日本自動車倶楽部からは前述のホラや横浜支部幹事のニクル、神奈川県庁からは大島警部、三谷道路課技師、寿町警察署からは小松氏などが出席。一同は横浜を出発し、本牧の「マカドホテル」付近で道が屈曲している場所を選んで早速標識を建てた。そしてなんとその時の写真が残っているのだ。

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                                          引用:日本自動車倶楽部『自動車』1巻2号 p.16

設置されているのは「左急曲」という種類の標識である。単柱式で、注目すべきは支柱に「神奈川縣」と表示されていることである。役人が立会も行っているので神奈川県公認ということなのだろうが、さらにこの時、管理や保護も県が行うという約束を取り付けているようだ。日本自動車倶楽部が制定した標識は以下の12種類だったようである。

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                          引用:日本自動車倶楽部横浜支部『日本自動車倶楽部年鑑:附・乗用者案内』 p.86-87

さて、気になるのがこの道路標識が建てられたのはどこかということである。本牧の「マカドホテル*6」というのは、現在の神奈川県横浜市中区池袋61番9号、「横濱山手テラス」が建っているところであるらしい。あまり引っ張らず当サイトの予想を述べるが、横濱時層地図で新旧の地図を見比べた結果、おそらくここである。


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現在の横浜市主要地方道82号山下本牧磯子線の本牧間門交差点付近である。昭和初期までは根岸方面から来た道路は本牧間門の交差点で現道から離れ、北東側に伸びる道へと繋がっていた。すなわち本牧間門の交差点付近で45度北に折れるような形になっていたようである。これは大正元年の写真の様子と合致する。さらに、道路北側は小高い丘のようになっていたが、昭和30年代以降に切り崩されている。ストリートビューで表示すると以下の様な案配である。清々しいまでに面影はない。また機会があれば現地のレポートは行いたい。

さて、日本自動車倶楽部によって行われた道路標識の設置であるが、その後、鎌倉→逗子→鎌倉→藤沢で作業を行い横浜へ戻っている。設置した路標は21を数え、さらに41本の追加が予定されていた。しかし、逗子まで完成した道路標識がいくつか住民によって破壊されるなどなかなか前途多難だったようだ。いくつかの資料によると日光街道にも標識の設置は行われたようだが、詳細は不明である。なお、日本自動車倶楽部自体は第1次世界大戦の開戦に伴う外国人会員の帰国や内部のゴタゴタなどによってこの数年後には自然消滅してしまった。

                                   (続く)

*1:これは一昨年くらいにAmazonで見つけた古本である。白看時代の末期に書かれた技術者向けの道路標識に関する概論と言った内容の本で、コンパクトに色々な情報がまとまっていてすごくお役立ちなのである。なお、この技術書院は倒産してしまったらしい。嗚呼。

*2:これを書いたのは建設省で道路行政の要職を歴任された浅井新一郎氏である。白看研究においては頻出の名前であるから覚えていて損はないかもしれない。

*3:このことは前掲書にも書いてある。専門書においてもそうなのだから、ネットの世界ではなおさらであろう。

*4:この本は道路行政や交通警察行政、各種データなど道路交通にまつわるありとあらゆる歴史が詰まっている道路クラスタ必読の一冊である。論述編はほぼ全ての内容を何故かウェブで見ることが出来る。

*5:当時の通達などが載っている「警察要務」という本の該当月が国会図書館にはなかったのだ。

*6:なおこのホテルは関東大震災で倒壊したらしい。絵葉書が残っている