103の2「熱海市内/相之原/梅園」

20140801静岡県熱海市にて撮影

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◯白看の種類:103の2「熱海市内/相之原/梅園」(複柱式)

 

◯設置されている道路:静岡県道20号熱海箱根峠線×熱海市

 

◯概要:新ブログになってから初めての登場、103の2。1962(昭和37)年1月30日の総理府建設省令第1号による改正で登場した「方面及び方向」を表示する標識である。特徴は103-A/103-B/103-Cでは表現できなかった複雑な交差点の形を表現できる点である。また初めて案内標識で盤面が青のベースになった。ただし暗めの青なので、愛好家は「紺看」などと呼ぶ。設置されるのは「交差点の手前150m以内の地点における左側の路端または交差点における進行方向の正面の路端」であり、この標識については後者に当てはまる。以下は複雑な形式の交差点を表現した例である。

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この紺看があるのは熱海峠から笹尻交差点を経て来宮駅へ一気に下ってくる坂の途中の交差点。実はこの交差点にはもう一つ103の2があった。ちょうど坂を逆側から上ってきたところの正面に「相之原/梅園/箱根峠/十石峠」を表示するものがあった。現在は新しい青看になっている。交換はごく最近のようで、2012年6月撮影のストリートビューで見ることが出来る。

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そしてこの標識で特筆すべきは「梅園」の字に付随して梅のイラストが書かれていること。白看などでは国道のおにぎりがイラストとして表示されていることがあるが(猪苗代の103-Bなど)、このようなはっきりと絵になっているのは珍しい。しかし全くのレアケースかというわけではない。

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上掲の103の2はおなじみ「道路標識ハンドブック」(全国道路標識業協会,1968)に出ていた住友軽金属の広告である。かなり大きく甲子園球場がイラスト化されている。キャプションを見ると「第2阪神国道に設置されているアルミ標識板」とある。サンプルなどではなく実際に設置されていたもののようだ。本物を見てみたかった…(地名表示に小文字が混じらないのが興味深い)

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裏面は高リブの横3本の補強鋼、アルミで出来ているようでまだまだしっかりしている。支柱には少し錆が見られるが問題ないレベルだろう。今後も末永く残ってほしい1枚だ。

 

ストリートビュー

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103-B「壬生/吉田」

20140918広島県安芸高田市にて撮影

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◯白看の種類:103-B「壬生↑15Km/吉田←21Km」(単柱式)

 

◯白看が設置されている道路:安芸高田市道(広島県道6号吉田邑南線旧道←吉田瑞穂線)×安芸高田市道(国道433号/国道434号線旧道←広島県道324号生田惣森線)

 

◯概要:ネット上のローラー調査にて発見した1枚である。場所は広島県安芸高田市美土里町生田、2004(平成16)年3月の“平成の大合併”以前は高田郡美土里町だった。直進方向は現在の国道433号線/国道434号線の重複区間を経て北広島町(旧千代田町)の壬生へ、左折方向は広島県道吉田邑南線(終点の島根県邑智郡瑞穂町が2004(平成16)年10月に邑南町となる以前は広島県道吉田瑞穂線)を経由して安芸高田市吉田町(旧吉田町)に至る。

設置されている集落は“生田”と書いて“いけだ”と読む。広島県道6号吉田邑南線は、古くは石見路出羽越という道で、この生田集落は広島県側の最後の集落にあたる。往時からの風情が十分に残っており、商店も立ち並んでいる。もっとも現在はほとんどが閉店しているようで、平日に行ったこの日は床屋さんのみが開店していた。下の写真にちらっと写っているが、屋根瓦は赤色の石州瓦で島根県側との結びつきを感じさせる。

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盤面の特徴としては、上段の「壬生」が何故か一文字ずつ張り替えられていることと、下段の「吉田」の表示(「吉」が「つちよし」になっていることに注意)に補強鋼由来の錆が出始めているが、状態は概ね良好である。支柱に対して盤面が下にずれているような気がするが、裏面を見るとハンガーの残骸のような針金でぐるぐると巻かれていた。動かすとグラグラしなかったので固定はしっかりされているようである。

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なお、この交差点の南東側、すなわち吉田側にも白看があった。103-B「壬生/瑞穂」でる。こちらのページを見ると上掲写真の左のお寺の手前にあったようだ(2009年頃には存在している)。さて最後に関係道路の簡単な来歴を紹介する。白看が設置されている本道は前述のとおり、広島県道6号吉田瑞穂線という名称だった。1965(昭和40)年3月31日の路線認定以前は広島県道生田金屋千代田線、島根県道・広島県道布施千代田線だった。一方の現国道433号は1982(昭和57)年の国道昇格以前は広島県道324号生田惣森線だった。現在は双方の道にバイパスが出来ている。交点には県道時代のキロポストが残っている。吉田瑞穂線、起点の旧吉田町吉田から20Km地点を表している。

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ストリートビュー

地理院地図(中央下部でバイパス建設中である)

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105「佐久間ダム」

20120527静岡県浜松市にて撮影

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◯白看の種類:105「佐久間ダム」(単柱式)

 

◯白看が設置されている道路:国道473号線(←静岡県道水窪佐久間線)

 

◯概要:ここは静岡県浜松市天竜区佐久間町。国道の現道に残る小さな白看である。
示されているのは佐久間ダム。天竜川中流部に建設された重力式コンクリートダムである。Wikipediaによると「日本第9位の高さと第8位の総貯水容量を有する日本屈指の巨大ダムであり、戦後日本の土木技術史の原点となった日本のダムの歴史に刻まれる事業である。」とある。戦後の電力不足を解消するために1953(昭和28)年着工、1956(昭和31)年に竣工と3年で完成させた。というように日本土木史のエポックメイキングであったこの佐久間ダムを案内するには、あまりにも小さい盤面。支柱も近くのNPO法人「わかすぎ工房」の表示の方が目立つ格好でかなり不遇である。

設置されているのは国道473号線の現道で、1993(平成5)年4月の国道指定以前は静岡県道水窪佐久間線という路線名だったようだ。なおこの先に佐久間隧道の竣工年度は1954(昭和29)年、それ以前は現在の佐久間発電所のある敷地内を旧道が走っていたようなので、最も古ければ改良の際に白看も設置されたのかもしれない。

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裏面を見ると補強鋼なしの鉄板の一枚もの。取り付け金具もなく直接盤面にネジ止めされているようである。盤面の大きさは違えど、丸型の支柱など、先に紹介した105「緑川ダム」との共通点が見られる。なお、「SAKUMA-DAM」とハイフン入で表示されている点も興味深い。

 

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105「緑川ダム」

20100403/20140914熊本県美里町にて撮影

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◯白看の種類:105「緑川ダム」(単柱式)

 

◯白看が設置されている道路:美里町道(国道218号線旧道)

 

◯概要:熊本県美里町の山中に残る単柱式の105。表示が「ダム」の白看はいくつかあり、今でも残っているのは105「佐久間ダム」(静岡県)、103-C「永瀬ダム」(高知県)、104「二川ダム/箕島」「二川ダム/高野山」(和歌山県)などがある。設置されているのは美里町総合運動公園や花定野集落との分岐点。おそらくどちらのルートを通っても緑川ダムには行けそうだが、古い地形図や空中写真を見ると手前の道路が旧国道のである。なお、旧国道と緑川ダムへの分岐はここから300mほど北側にある。

表示されている「緑川ダム」は1968(昭和43)年着工、1971(昭和46)年3月に完成した緑川の洪水調節・灌漑・発電用に設置された重力式コンクリートダム。黒四などの大型土木施設が観光地だった時代、同様に緑川ダムの観光開発を狙って設置されたものなのだろうか。

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裏面は補強鋼なしの一枚鉄板もの。円形の支柱の中央部に小さな金具で取り付けられていることがわかる。しかし、ダムの完成時期は既に白看末期であり、このようなシンプルな形式で設置されることは少し考えにくい。完成に先立って、工事事務所が設置された1966(昭和41)年頃の設置ではないかと推測される。

 

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103-C「佐野」

20131214栃木県佐野市にて撮影

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◯白看の種類:103-C「佐野↗︎5Km」(単柱式)

 

◯設置されている道路:佐野市道(栃木県道16号佐野田沼線旧道)×栃木県道144号多田吉水線(←栃木県道16号佐野田沼線

 

◯概要:正直この白看は探しに行ったとき、一旦は撤去されたしまったのだと思った。次のターゲットを探しにと車を転回させて逆車線を走ってようやく見つけることが出来た。おそらくもともと設置されていた場所からそんなに離れていない、ガソリンスタンドの敷地内に横たわっていた。必要なくなって外されたのか、台風などが来た際に外れて修理されることなくそのままになっているのかはわからないが、とにかく存在してくれているだけでありがたい。

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ガソリンスタンドは廃業しているし、折角なので壁を利用して立ててみた。初めて白看(というか道路標識)を持ってみたが想像以上に重たい。すべて鉄製であるから当たり前ではあるが。全景の写真も見てもらえるとわかるが、結構曲がっている。かなり重たかったが白看にしては心無しか鉄板も薄いような感じがする。ちなみに白看は元通りそっと戻しておいた。

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設置されているのは栃木県佐野市、旧田沼町のY字交差点だ。Y字のVの部分にはキグナスの廃業したガソリンスタンドがある。現在は白看が設置されている北西側が佐野市道、北東側から南にかけての道が栃木県道144号多田吉水線である。しかし、この白看が設置された当時は北西側から南にかけての道は栃木県道16号佐野田沼線(1962(昭和37)年8月認定)、北東側は田沼町道(栃木県道144号多田吉水線は1974(昭和49)年3月認定)であった。

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しかし、この白看も近いうちに命運尽きるかもしれない。それは上記のガソリンスタンドの裏からショートカット路が整備されている。するとこの交差点が「卜」の字を逆にしたような形になり、当然ガソリンスタンドの建物はなくなるだろう。交差点が新たに整備された時にこの白看が残る可能性は…正直ほとんどゼロだろう。

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104「千才/厚眞」

20140707北海道厚真町にて撮影

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◯白看の種類:104「千才35Km/厚眞8Km」(複柱式)

 

◯設置されている道路:北海道道10号千歳鵡川

 

◯概要:“外れ白看”の代表格と言えば、北の大地に倒れるこちらの104ではないだろうか。探索に行けば誰もが一度は「撤去されたか」と思うものの、ちょっと探せば必ず発見出来るという良き外れ白看である。この白看を有名たらしめる最大の特徴は「千歳」を「千才」と書いてあるところ。また「厚真」の「真」は旧字体が使われている。「厚真町」は「あつまちょう」であるが、地元では「あずま」と濁ることもあるらしく、この点は誤植とまでは言えないだろう。

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さて、「千才」に関してはこちらの記事をご覧頂きたい。札幌市豊平区にあった103-B「千戈/札幌」についてである。1980年代中盤には街中にこのような白看がゴロゴロしてたかと思うと嘆息してしまうが、設置時期について考察してみよう。豊平の白看は現在の国道453号の旧道、平岸街道にあった。国道指定以前は北海道道308号丸駒札幌線(1960年4月〜1965年4月)→北海道道512号札幌支笏湖線(1965年4月〜1993年4月)だった。細かなルート指定は机上調査だけではわからないが、現在の国道指定されているルートは昭和40年代のはじめに拡幅されたようだ。なので設置はそれ以前、予想としては丸駒札幌線が指定された1960年(昭和35年)頃の設置と考えるのが妥当だろうか。(昭和35年から認められた大型板なのでその点も加味している)設置されていた場所は以下の通りである。

 さて表題の白看ではない白看の話を長々としてしまったが、この「千才/厚眞」の白看が設置されている北海道道10号千歳鵡川線の指定は1954(昭和29)年3月である。ただし大型板であることを加味すると設置は昭和35年以降ではないかと考えられる。

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なお倒れたのは5年くらい前のようで、えぬさんの「TTS旅の思い出」(2009年5月)にはしっかり立っている姿が確認出来るが、2010年8月に伊藤秀一さん(@shu10515)の投稿によるとすでに倒れているようである。

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103-B「保原/梁川」

20120617福島県伊達市にて撮影

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◯白看の種類:103-B「保原↑11Km/梁川↗︎13Km」(複柱式)

 

◯設置されている道路:伊達市道(旧国道349号線←旧福島県道)×伊達市道(福島県道149号月舘霊山線旧道)

 

◯概要:白看は存在しているかしていないか、白か黒、イエスかノー、ほとんどがそうなのだが、前回紹介した大分県玖珠町の白看のように支柱からは外された/外れたものの何らかの理由で残置しているものがある。こちら、福島県の北東部、伊達市月舘町に残る103-Bもその一つだ。どういうタイミングで落下したかは知る由もないが、心ある人にもとあった支柱の側にそっと置かれている。外れてからそれなりの年月が経っているのか、下の「梁川」の部分の文字や距離は雑草に覆われて見え辛くなっている。

盤面は昭和30年代後半から登場した「拡大板」。裏面は二型である。金具が外れた破断面がよくわかる。

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燦さんの「WINDY EXCURSION」の紹介記事によれば、2006年9月には支柱にくっついていたようである。はっきり言ってほとんど用を達していないが、こうやって残っているのは①道路標識が公的な設置物であること(この場合はおそらく福島県の設置)、そして②伊達市道に降格しているために、市としてすぐに撤去しづらい?(古くなった管理外の白看はどのような手続きで撤去されるのだろう)、という2つの理由があるのではと思われる。

なおこの白看が設置されているのは国道349号線伊達市月舘町御代田地区の旧道。交差する福島県道149号月舘霊山線は現在はバイパス化された新道との交点(上の写真に写っている交差点)が起点になっているが、古くはこのY字交差点が起点だったはずだ。
「地図・空中写真閲覧サービス」で確認すると1970(昭和45)年5月ではバイパス工事は始まっていないが、1971(昭和46)年10月にはバイパスはほぼ完成し供用間近という感じである。おそらくこの直後に旧道化したのでないかと思われる。

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地理院地図

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103-B「耶馬溪/院内」

20140825大分県玖珠町にて撮影

2005年5月、このような白看を見つけた。
大分県玖珠町の畑の中に落ちている旧103-Bである。

この白看は現国道387号線(旧大分県道19号長洲玖珠線)と大分県道28号森耶馬渓線の交点に設置されていたものだ。しかしお役御免になってからは側の畑に突き刺されていた。白看のおよそ3分の1は土に埋まっているようだ。それでも残っているだけ嬉しかった。この写真を撮影して9年とちょっと、現存確認をしようと久しぶりに訪れてみると…

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おやおや?

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もしかして…?

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ファンタスティック!なんと9年の時を経て白看は掘り起こされ、交差点の直前に立てかけられ見事な“復活”を果たしていたのだった!!

 

◯白看の種類:103-B「耶馬溪↖︎23Km/院内↗︎32Km」(オーバーハング式・吊り下げ?・2点支持)

 

◯設置されている道路:国道387号線(旧大分県道19号長洲玖珠線)×大分県道28号森耶馬渓

 

◯概要:誰かによって掘り起こされたことで明らかになったことがある。まず大きさは、昭和35年12月の道路標識令改正(案内標識と警戒標識について元の基準の大きさの3倍までの標識板が出来るようになった)から認められた拡大板である。

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また、標識板上部には、吊り下げ式の白看に使われるヒンジが取り付けられている。なので、オーバーハング式の白看ではなかったかと推測される。
そしてご覧の通り、耶馬溪の「耶」の字が修正されている。修正前の部分を解読しようと目をこらすと漢字右側のつくりの部分が、左側の偏の部分に来ているように見える。もしそうだったとしたら「YAMANAKA CAKE」並の誤植白看だと思うがいかがだろうか。

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さて、この白看の復活劇の真相をさぐるべく、人見知りなので普段ほとんどやらないのだが、近くで農作業をしているおっちゃん(道路業界では古老って表現するんでしたっけ?)に話を聞いてみた。いつ掘り起こされたかについては「前からあったがな」という感じで、あまり気にしていない様子。ただ、オーバーハング式だったことは間違いないようだ。

ちなみに、帰宅後ストリートビュー様をチェックするとしっかりと写っているではないか。前回の記事を書いた時に意識していればわかったことだと思うとがっかりである。

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特別連載:白看前史(2)

  • 海外の道路標識の発展について

さて、自動車交通の発展については当然ながら海外のそれが先行しており、道路標識についても同様である。日本の道路標識は大正以降、海外の影響を色濃く受けるようになってくる(前回紹介した「日本自動車倶楽部の道路標識」も海外の自動車クラブのものを下敷きにしている)。

フロリダにある道路標識製造会社“Municipal Supply & Sign Company”のブログページに海外における道路標識の歴史が簡潔にまとまっているのでご紹介したい。

海外の道路標識の端緒はローマ時代のマイルストーン(里程標)である。紀元前120年頃、ローマ帝国の道路関連法「センプローニウス法」に基づき、主要な街道の1ローママイルごとに設置することが定められた。もちろんこれはローマへの距離を表示している。中世には現在の案内標識のような複数の目的地への距離表示が付いた道標が登場した(=Fingerpost)。

時代は進んで1870年代後半から1880年代前半、自転車を利用した長距離旅行が行われるようになった。あまりよく知らない場所を通行するため、各所の「スリップ注意」「急坂注意」などを表示する必要に迫られていた。1895年には“Italian Touring Club”によって近代的な道路標識の体系が提案され、実際に設置もされたようだ*1。また、1900年パリで行われた“Congress of the International League of Touring Organizations”*2は道路標識の標準化についての検討を行ったとある。

さて、かなり前置きが長くなってしまったが、ここからが日本の道路標識と交わりが生まれてくる。1908(明治41)年、世界初の道路に関する国際会議がパリで行われ、*3以下が議決された。

That the system of road measurement by means of mile stones or mileage posts should be re-modulled as soon as possible, and standardised for each country.

(里程標などによる距離表示の仕組みはできるだけ早く再構築し、各国で標準化されなければならない)

旧来のマイルストーンの時代から「道路標識」の時代に移り始めたことがよくわかる。その翌年、1909(明治42)年には“世界道路協会(PIARC)”が設立された。日本は1910(明治43)年に加盟したようだ*4

道路標識に関しては、1913(大正3)年6月23日〜6月27日、ロンドンのクインホールで行われた第3回万国道路会議で盛んに話し合われたようだ。報告集にはドイツ、オーストリア、米国、フランス、英国、イタリアの里程標や道路標識の現状報告や統一標識の提案などが掲載されている*5。この会議に日本から初めて(?)、当時の内務省土木局長、久保田政周が出席している。諸外国の道路標識についての見識もこの久保田によって持ち帰られたのかもしれない。

 

 その後の数年間で、世界的な流れであった国家としての道路標識の統一事業が日本でも進められていたようで、1921(大正11)年3月15日、新聞にこんな記事が掲載される*6

道路標識 様式の発表

万国道路協会で決定した自動車其他の交通の為めに設く道路標識は目下県土木課に作製中で近く神戸市郡境界より姫路に至る間及び西宮、伊丹、尼崎、宝線道路に設定すべく 其様式の発表を見たが右は既報の通り高さ五尺に二尺、記号板に記号を書き其下に記号説明を加えると…(神戸又新日報 1922.3.15)

 「万国道路協会で決定した」とは上記の万国道路会議のことだと考えられる。続いて6月には以下の記事が登場している。ちょっと長いが引用する。

全国一斉に立てる道路警戒標
内務省が一大奮發で差當り自動車道路へ

交通上の不祥事が道路の悪いことに起因することが多いのは今更云う迄もないと言って乱雑な都市の道路を根本的に改造することは今日の場合早急には出来ない相談
其処で今回内務省でも事故を防止する為め全国の道路に道路警戒標識と云うものを立てる事に決し来月四五日頃省令を以て公布する筈である
去る大正三年倫敦に開かれた第三回万国道路会議の席上万国統一的に道路に標識する事に決した今回は其様式に依って全国的に実施するものである
従って広告を兼ねた民間の道路標識は一切取除かれるそうである、此の標識は経費の点から全国悉くの道路に実施する事は困難なので自動車が通行する道路丈けに先ず施されるが其計上された総距離は約七千哩に達し此区間に於て例令ば四つ角、坂曲り角、鉄道踏切等の危険の地点前後五十間乃至八十間の処に立てるので其標識一本は約十円を要す
総費用は可なり多額のものであるから各府県で分担する事になり省令が発布された後府県で準備成り次第実施することとなろう尚道路警戒標の一種として道路方向標をも併せ造ることになった之は停車場に建てられてある駅名板のようなもので其表面に地名方向距離の三つが記されてある又飽まで危険防止の目的を達せんために尚此外に自動車道路地図も全国各地に亘って作成するそうである(東京電話)(大阪時事新報 1922.6.23)

ロンドンの万国道路会議で「万国統一的に 道路に標識する事に決した今回は其様式に依って…」とあるとおり、何らかの統一様式に関する見解が出されたのかもしれないが、資料を見つけ出せていない。また「広告を兼ねた民間の道路標識」というのはその当時盛んに設置されていたようで、もしかして前回紹介した「日本自動車倶楽部の道路標識」もこの時に撤去されたのかもしれない。もしそうだとしたらかなり10年足らずの短命だったことになる。そしてついに法制的に日本初の統一された道路標識が登場する。(続く)

*1:Our history

*2:この組織についてはちょっと調べたがどういうものかよくわからなかった

*3:International Road Congress、日本語では「万国道路会議」と訳されることが多かった

*4:世界道路協会日本語ページ

*5:世界道路協会のHPで無料で登録をすれば読むことが出来る

*6:ここから2つ紹介する新聞記事は「神戸大学附属図書館 新聞記事文庫」による。戦前の新聞に切り抜きが数多く収集されており、検索も可能。非常に素晴らしい。

103-B「丸森/福島」

20140622宮城県丸森町にて撮影

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◯白看の種類:103-B「丸森↑9Km/福島→42Km」(単柱式)

 

◯設置されている道路:丸森町道(福島県道24号白石丸森線旧道)×丸森町道(国道349号線旧道)

 

◯概要:6月の東北遠征のおりに偶然発見した白看。場所は宮城県丸森町阿武隈川沿いの町道どうしのT字交差点。白看が設置されている本道側は宮城県道24号白石丸森線の旧道区間。交差する国道349号線のこの区間は1995(平成7)年3月竣工の片倉トンネルでバイパスされている。そのため白石丸森線の終点はバイパスとの交点に変更され、旧道区間は町道に降格している。

白看はかなり傷みが激しいようだが、この近くの宮城県道106号川前白石線に設置されている103-B「越河/白石」をはじめとする宮城県の基本サイズの103-Bと同様、数字が角ゴシックになっているタイプだ。

なお、このブログで何度もご紹介している私の白看研究のバイブル「道路工学23 道路標識」(昭和45年9月)によると、標識に用いる漢字の書体は「太」形の丸ゴシック体とある。数字については指定はないが、全国的には丸ゴシックが大半のように思う。

宮城県独自のものなのだろうか。興味深い。

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裏面は「二型」である。おそらく設置されてから一度もビスの交換などメインテナンスは受けていなかったか。

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ストリートビュー

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地理院地図