103-B「保原/梁川」

20120617福島県伊達市にて撮影

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◯白看の種類:103-B「保原↑11Km/梁川↗︎13Km」(複柱式)

 

◯設置されている道路:伊達市道(旧国道349号線←旧福島県道)×伊達市道(福島県道149号月舘霊山線旧道)

 

◯概要:白看は存在しているかしていないか、白か黒、イエスかノー、ほとんどがそうなのだが、前回紹介した大分県玖珠町の白看のように支柱からは外された/外れたものの何らかの理由で残置しているものがある。こちら、福島県の北東部、伊達市月舘町に残る103-Bもその一つだ。どういうタイミングで落下したかは知る由もないが、心ある人にもとあった支柱の側にそっと置かれている。外れてからそれなりの年月が経っているのか、下の「梁川」の部分の文字や距離は雑草に覆われて見え辛くなっている。

盤面は昭和30年代後半から登場した「拡大板」。裏面は二型である。金具が外れた破断面がよくわかる。

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燦さんの「WINDY EXCURSION」の紹介記事によれば、2006年9月には支柱にくっついていたようである。はっきり言ってほとんど用を達していないが、こうやって残っているのは①道路標識が公的な設置物であること(この場合はおそらく福島県の設置)、そして②伊達市道に降格しているために、市としてすぐに撤去しづらい?(古くなった管理外の白看はどのような手続きで撤去されるのだろう)、という2つの理由があるのではと思われる。

なおこの白看が設置されているのは国道349号線伊達市月舘町御代田地区の旧道。交差する福島県道149号月舘霊山線は現在はバイパス化された新道との交点(上の写真に写っている交差点)が起点になっているが、古くはこのY字交差点が起点だったはずだ。
「地図・空中写真閲覧サービス」で確認すると1970(昭和45)年5月ではバイパス工事は始まっていないが、1971(昭和46)年10月にはバイパスはほぼ完成し供用間近という感じである。おそらくこの直後に旧道化したのでないかと思われる。

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地理院地図

◯場所はこちら


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103-B「耶馬溪/院内」

20140825大分県玖珠町にて撮影

2005年5月、このような白看を見つけた。
大分県玖珠町の畑の中に落ちている旧103-Bである。

この白看は現国道387号線(旧大分県道19号長洲玖珠線)と大分県道28号森耶馬渓線の交点に設置されていたものだ。しかしお役御免になってからは側の畑に突き刺されていた。白看のおよそ3分の1は土に埋まっているようだ。それでも残っているだけ嬉しかった。この写真を撮影して9年とちょっと、現存確認をしようと久しぶりに訪れてみると…

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おやおや?

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もしかして…?

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ファンタスティック!なんと9年の時を経て白看は掘り起こされ、交差点の直前に立てかけられ見事な“復活”を果たしていたのだった!!

 

◯白看の種類:103-B「耶馬溪↖︎23Km/院内↗︎32Km」(オーバーハング式・吊り下げ?・2点支持)

 

◯設置されている道路:国道387号線(旧大分県道19号長洲玖珠線)×大分県道28号森耶馬渓

 

◯概要:誰かによって掘り起こされたことで明らかになったことがある。まず大きさは、昭和35年12月の道路標識令改正(案内標識と警戒標識について元の基準の大きさの3倍までの標識板が出来るようになった)から認められた拡大板である。

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また、標識板上部には、吊り下げ式の白看に使われるヒンジが取り付けられている。なので、オーバーハング式の白看ではなかったかと推測される。
そしてご覧の通り、耶馬溪の「耶」の字が修正されている。修正前の部分を解読しようと目をこらすと漢字右側のつくりの部分が、左側の偏の部分に来ているように見える。もしそうだったとしたら「YAMANAKA CAKE」並の誤植白看だと思うがいかがだろうか。

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さて、この白看の復活劇の真相をさぐるべく、人見知りなので普段ほとんどやらないのだが、近くで農作業をしているおっちゃん(道路業界では古老って表現するんでしたっけ?)に話を聞いてみた。いつ掘り起こされたかについては「前からあったがな」という感じで、あまり気にしていない様子。ただ、オーバーハング式だったことは間違いないようだ。

ちなみに、帰宅後ストリートビュー様をチェックするとしっかりと写っているではないか。前回の記事を書いた時に意識していればわかったことだと思うとがっかりである。

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特別連載:白看前史(2)

  • 海外の道路標識の発展について

さて、自動車交通の発展については当然ながら海外のそれが先行しており、道路標識についても同様である。日本の道路標識は大正以降、海外の影響を色濃く受けるようになってくる(前回紹介した「日本自動車倶楽部の道路標識」も海外の自動車クラブのものを下敷きにしている)。

フロリダにある道路標識製造会社“Municipal Supply & Sign Company”のブログページに海外における道路標識の歴史が簡潔にまとまっているのでご紹介したい。

海外の道路標識の端緒はローマ時代のマイルストーン(里程標)である。紀元前120年頃、ローマ帝国の道路関連法「センプローニウス法」に基づき、主要な街道の1ローママイルごとに設置することが定められた。もちろんこれはローマへの距離を表示している。中世には現在の案内標識のような複数の目的地への距離表示が付いた道標が登場した(=Fingerpost)。

時代は進んで1870年代後半から1880年代前半、自転車を利用した長距離旅行が行われるようになった。あまりよく知らない場所を通行するため、各所の「スリップ注意」「急坂注意」などを表示する必要に迫られていた。1895年には“Italian Touring Club”によって近代的な道路標識の体系が提案され、実際に設置もされたようだ*1。また、1900年パリで行われた“Congress of the International League of Touring Organizations”*2は道路標識の標準化についての検討を行ったとある。

さて、かなり前置きが長くなってしまったが、ここからが日本の道路標識と交わりが生まれてくる。1908(明治41)年、世界初の道路に関する国際会議がパリで行われ、*3以下が議決された。

That the system of road measurement by means of mile stones or mileage posts should be re-modulled as soon as possible, and standardised for each country.

(里程標などによる距離表示の仕組みはできるだけ早く再構築し、各国で標準化されなければならない)

旧来のマイルストーンの時代から「道路標識」の時代に移り始めたことがよくわかる。その翌年、1909(明治42)年には“世界道路協会(PIARC)”が設立された。日本は1910(明治43)年に加盟したようだ*4

道路標識に関しては、1913(大正3)年6月23日〜6月27日、ロンドンのクインホールで行われた第3回万国道路会議で盛んに話し合われたようだ。報告集にはドイツ、オーストリア、米国、フランス、英国、イタリアの里程標や道路標識の現状報告や統一標識の提案などが掲載されている*5。この会議に日本から初めて(?)、当時の内務省土木局長、久保田政周が出席している。諸外国の道路標識についての見識もこの久保田によって持ち帰られたのかもしれない。

 

 その後の数年間で、世界的な流れであった国家としての道路標識の統一事業が日本でも進められていたようで、1921(大正11)年3月15日、新聞にこんな記事が掲載される*6

道路標識 様式の発表

万国道路協会で決定した自動車其他の交通の為めに設く道路標識は目下県土木課に作製中で近く神戸市郡境界より姫路に至る間及び西宮、伊丹、尼崎、宝線道路に設定すべく 其様式の発表を見たが右は既報の通り高さ五尺に二尺、記号板に記号を書き其下に記号説明を加えると…(神戸又新日報 1922.3.15)

 「万国道路協会で決定した」とは上記の万国道路会議のことだと考えられる。続いて6月には以下の記事が登場している。ちょっと長いが引用する。

全国一斉に立てる道路警戒標
内務省が一大奮發で差當り自動車道路へ

交通上の不祥事が道路の悪いことに起因することが多いのは今更云う迄もないと言って乱雑な都市の道路を根本的に改造することは今日の場合早急には出来ない相談
其処で今回内務省でも事故を防止する為め全国の道路に道路警戒標識と云うものを立てる事に決し来月四五日頃省令を以て公布する筈である
去る大正三年倫敦に開かれた第三回万国道路会議の席上万国統一的に道路に標識する事に決した今回は其様式に依って全国的に実施するものである
従って広告を兼ねた民間の道路標識は一切取除かれるそうである、此の標識は経費の点から全国悉くの道路に実施する事は困難なので自動車が通行する道路丈けに先ず施されるが其計上された総距離は約七千哩に達し此区間に於て例令ば四つ角、坂曲り角、鉄道踏切等の危険の地点前後五十間乃至八十間の処に立てるので其標識一本は約十円を要す
総費用は可なり多額のものであるから各府県で分担する事になり省令が発布された後府県で準備成り次第実施することとなろう尚道路警戒標の一種として道路方向標をも併せ造ることになった之は停車場に建てられてある駅名板のようなもので其表面に地名方向距離の三つが記されてある又飽まで危険防止の目的を達せんために尚此外に自動車道路地図も全国各地に亘って作成するそうである(東京電話)(大阪時事新報 1922.6.23)

ロンドンの万国道路会議で「万国統一的に 道路に標識する事に決した今回は其様式に依って…」とあるとおり、何らかの統一様式に関する見解が出されたのかもしれないが、資料を見つけ出せていない。また「広告を兼ねた民間の道路標識」というのはその当時盛んに設置されていたようで、もしかして前回紹介した「日本自動車倶楽部の道路標識」もこの時に撤去されたのかもしれない。もしそうだとしたらかなり10年足らずの短命だったことになる。そしてついに法制的に日本初の統一された道路標識が登場する。(続く)

*1:Our history

*2:この組織についてはちょっと調べたがどういうものかよくわからなかった

*3:International Road Congress、日本語では「万国道路会議」と訳されることが多かった

*4:世界道路協会日本語ページ

*5:世界道路協会のHPで無料で登録をすれば読むことが出来る

*6:ここから2つ紹介する新聞記事は「神戸大学附属図書館 新聞記事文庫」による。戦前の新聞に切り抜きが数多く収集されており、検索も可能。非常に素晴らしい。

103-B「丸森/福島」

20140622宮城県丸森町にて撮影

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◯白看の種類:103-B「丸森↑9Km/福島→42Km」(単柱式)

 

◯設置されている道路:丸森町道(福島県道24号白石丸森線旧道)×丸森町道(国道349号線旧道)

 

◯概要:6月の東北遠征のおりに偶然発見した白看。場所は宮城県丸森町阿武隈川沿いの町道どうしのT字交差点。白看が設置されている本道側は宮城県道24号白石丸森線の旧道区間。交差する国道349号線のこの区間は1995(平成7)年3月竣工の片倉トンネルでバイパスされている。そのため白石丸森線の終点はバイパスとの交点に変更され、旧道区間は町道に降格している。

白看はかなり傷みが激しいようだが、この近くの宮城県道106号川前白石線に設置されている103-B「越河/白石」をはじめとする宮城県の基本サイズの103-Bと同様、数字が角ゴシックになっているタイプだ。

なお、このブログで何度もご紹介している私の白看研究のバイブル「道路工学23 道路標識」(昭和45年9月)によると、標識に用いる漢字の書体は「太」形の丸ゴシック体とある。数字については指定はないが、全国的には丸ゴシックが大半のように思う。

宮城県独自のものなのだろうか。興味深い。

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裏面は「二型」である。おそらく設置されてから一度もビスの交換などメインテナンスは受けていなかったか。

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ストリートビュー

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地理院地図

特別連載:白看前史(1)

道路標識は道路の“顔”であると同時に道路の“心”でもある。
(技術書院『交通工学23 道路標識』序、 1970年)

これは私の道路標識研究のバイブル、技術書院の交通工学シリーズの第23巻、「道路標識」*1 の序文に書かれた一節である。何か良い感じのことを言ってる雰囲気であるが、今一つ要領を得ない。続きを読んでみよう。

道路標識を樹てる心は道路を造る心にそのまま通じるものであり、道路を造ることの意義は、道路標識の正しい設置によってはじめて十全のものとなるといってよいであろう。したがって、道路標識を樹てることは、道路を造ることと同じように、否それ以上に慎重でなければならない筈のものであるにもかかわらず、未だともするとこれを軽んずる傾向が伺えるのは残念なことである。(前掲書)

かなり道路標識に対するアツさを感じられる文章*2であるが、存在感のなさに対する無念さみたいなのも滲む。確かに道路趣味の世界においても、道路標識を愛好するのは本流ではないのかもしれない。やはり最初に目が行くのは道路それ自体や、橋やトンネルなどの「大きな」構造物であろう。どちらかと言うと道路標識はおまけみたいな感じかもしれない。 

それでも白看と呼ばれる旧型の案内標識については私のような変わり者のブログをはじめ、いくつかの老舗サイトもあるし、Twitterなどでも新たに情報を発信されている方もいらっしゃるので、何か心を震わすものはあるのだと思う。しかし残念ながら昔の道路標識についての情報や資料は極めて少ない*3。ニッチな世界であることは自覚しているが、ニッチなゆえ発見の喜びもあるということで、ここは一つ道路標識の進化と発達の段階をひも解き、みなさんにご紹介したいと思う。

 

  • 明治時代までの道路標識

道路標識の原型は「道しるべ(道標)」である。道路の辻や街道の分岐点などに設置され、主要地への距離や方向を表示したものだ。今でいうところの案内標識と全く同じ役割のものである。 各地域ごとに、郷土史的なアプローチをされているサイトはたくさんあるので参照されたい。宮崎県の津花峠に建てられた道標はこのブログでも紹介した。ちなみに昭和に入ってからも石造の道標が作られることはあったみたいだ(HP「相武電鉄上溝浅間森電車庫付属資料館」)。

 
それでは今で言うところの「警戒標識」や「規制標識」の歴史はどんな感じだったのだろうか。明治の初期に官公署は立て札を使って道路利用者に通行の禁止や制限を指示していた。これらの立て札のことを「制札」と呼んだそうである(道路交通問題研究会『道路交通政策史概観 資料編*4』p.541、2002年)。

 

そして1899(明治32)年6月、ついに道路標識に関する最初の統一法令とも言うべき通達が出される。

  • 「通行止の制札制文令」(警視庁第二部長)1899年6月

残念ながら私はこの警視庁第二部長が出したという通達の原典を、今のところ見つけられていない*5。どうしても孫引用になってしまうのが避けられないが、その時に統一された制札の様式は以下の8種類だった(黒文字で木製であった)らしい。通行止めの理由としては道路の幅員の狭隘、橋梁脆弱、急坂、道路工事、交通頻繁などが挙げられていた。今で言う「規制標識」のはしりであるが、その効力は東京府下に限定されたものだった。以下に再現してみた。高さなどの諸元はわからないが、おそらくこのような感じだったのではないだろうか。

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 なお、日本で最初の自動車は1898(明治31)年、フランス・ブイ機械製作所の技師、ジャン・マリー・テブレが持ち込んだものである。同年1月には築地から上野までデモ走行したという新聞記事が残っている(高田公理「自動車と人間の百年史」p.18、1987年)。この通達が出されたのはその翌年なので、自動車というものは殆どなく、制文の表示にあるとおり、専ら牛車や人力の荷車などを対象とした道路標識だったと言えるだろう。

官公署ノ榜示シ若ハ官公署ノ指揮二依リ榜示セル禁條ヲ犯シ又ハ其ノ設置二係ル榜標ヲ汚瀆シ若ハ撤去シタル者

その10年後、1908(明治41)年9月に出された「内務省令第16号 警察犯処罰令」第2条26号では、榜標(道路標識)を汚損したり勝手に撤去する者は拘留または科料に処せられた。これで制札は法的な位置づけを持ったということになる。

 

さて、この間も自動車はいわゆる特権階級を中心に普及が広まっていた。1911(明治44)年には日本で最初の自動車クラブ「日本自動車倶楽部(NAC)」が誕生している。 これは数少ない自動車所有者の交流機関であり、また運転マナー向上の啓蒙や自動車旅行者の便宜を図るのがその目的だったようだ。1912(大正元)年日本で最初の「警戒標識」を設置したのがこの会であった。

  • 「日本自動車倶楽部の道路標識」1912年12月
「自動車乗用者のために建設されたる日本に於ける最初の道路標」    将来日本自動車倶楽部に於て設立廿五年の祝典を擧ぐるに當り大正元年十二月二十日は其最も紀年すべき日として記録中に特筆大書きせらるゝに至りや必せり(日本自動車倶楽部『自動車』1巻2号 p.15-17、1913年)

ものすごく大げさに書いてあるが、それ程までにこの道路標識の設置がエポックメイキングなことだったのだろう。この日本自動車倶楽部は会報を毎月発行していて、この事業の経緯が細かに載っているのでご紹介したい。

道路標 道路の險危なる箇所には目標となるべき標札を建てゝ自動事乗用者の便を計るべしとは委員會に於て決議せられたることに現にケージエー、ホラ氏は過日佛國ゼネラル、オートモビール協會の採用せる道路標に訂正を加へ之を日本に適用せんとの立案を委員會に提出せり委員會は直に之れを可決しホラ氏に嘱して目標を造らしめ第一着として神奈川縣下の諸所の道路に建つる事と為りたり其箇所を示せば次の如く、東京宮ノ下間、横濱鎌倉間、横濱、金澤、逗子、三崎間等にして神奈川縣廳も此の目標建設及び之れが保護の為に十分の力を盡さるゝことを約されたり、此の如く目標建設の議は倶楽部内外の賛助を得て着々其の効を奏し來る拾貳月末までには前記の道路に目標備へらるべし尚ほ目標の所在を明記したる明細表は十二月初旬までに調製し倶楽部會員一同に配付の豫定にして會員外の人たりとも自動車又は自動運送車の所有者は請求に從ふ各一部を無代送呈することゝせり(日本自動車倶楽部『自動車』1巻1号 p.13、1912年)

自動車文化の初期において、諸外国でも道路標識の設置は自動車クラブによって行われることが多かったようだ。確かに自動車を利用する自分たちのために自分たちが道路標識を設置するというのは動機として非常に理解できるものだ。中心となって設置を進めた「ケージエー、ホラ氏」とはチェコ人出身の技師、カレル・ヤン・ホラでチェコで初めての日本学者となった人物だそうだ。(HP「チェコスロバキアにおける日本美術」

さて、自動車乗用者のために初めて設置された道路標識が設置されたのは1912(大正12)年12月20日のことである。さぞかし賑々しく記念式典でも行ったかと思えば、

天候雨を帯び北風凛冽膚を刺し加ふるに時恰も冬季休日に近づき業務多忙のため來り會する者甚少なかりしは遺憾の極みなりしも(日本自動車倶楽部『自動車』1巻2号 p.15、1913年)

というわけで、意外にも参加者は少なかったようだ。それでも日本自動車倶楽部からは前述のホラや横浜支部幹事のニクル、神奈川県庁からは大島警部、三谷道路課技師、寿町警察署からは小松氏などが出席。一同は横浜を出発し、本牧の「マカドホテル」付近で道が屈曲している場所を選んで早速標識を建てた。そしてなんとその時の写真が残っているのだ。

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                                          引用:日本自動車倶楽部『自動車』1巻2号 p.16

設置されているのは「左急曲」という種類の標識である。単柱式で、注目すべきは支柱に「神奈川縣」と表示されていることである。役人が立会も行っているので神奈川県公認ということなのだろうが、さらにこの時、管理や保護も県が行うという約束を取り付けているようだ。日本自動車倶楽部が制定した標識は以下の12種類だったようである。

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                          引用:日本自動車倶楽部横浜支部『日本自動車倶楽部年鑑:附・乗用者案内』 p.86-87

さて、気になるのがこの道路標識が建てられたのはどこかということである。本牧の「マカドホテル*6」というのは、現在の神奈川県横浜市中区池袋61番9号、「横濱山手テラス」が建っているところであるらしい。あまり引っ張らず当サイトの予想を述べるが、横濱時層地図で新旧の地図を見比べた結果、おそらくここである。


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現在の横浜市主要地方道82号山下本牧磯子線の本牧間門交差点付近である。昭和初期までは根岸方面から来た道路は本牧間門の交差点で現道から離れ、北東側に伸びる道へと繋がっていた。すなわち本牧間門の交差点付近で45度北に折れるような形になっていたようである。これは大正元年の写真の様子と合致する。さらに、道路北側は小高い丘のようになっていたが、昭和30年代以降に切り崩されている。ストリートビューで表示すると以下の様な案配である。清々しいまでに面影はない。また機会があれば現地のレポートは行いたい。

さて、日本自動車倶楽部によって行われた道路標識の設置であるが、その後、鎌倉→逗子→鎌倉→藤沢で作業を行い横浜へ戻っている。設置した路標は21を数え、さらに41本の追加が予定されていた。しかし、逗子まで完成した道路標識がいくつか住民によって破壊されるなどなかなか前途多難だったようだ。いくつかの資料によると日光街道にも標識の設置は行われたようだが、詳細は不明である。なお、日本自動車倶楽部自体は第1次世界大戦の開戦に伴う外国人会員の帰国や内部のゴタゴタなどによってこの数年後には自然消滅してしまった。

                                   (続く)

*1:これは一昨年くらいにAmazonで見つけた古本である。白看時代の末期に書かれた技術者向けの道路標識に関する概論と言った内容の本で、コンパクトに色々な情報がまとまっていてすごくお役立ちなのである。なお、この技術書院は倒産してしまったらしい。嗚呼。

*2:これを書いたのは建設省で道路行政の要職を歴任された浅井新一郎氏である。白看研究においては頻出の名前であるから覚えていて損はないかもしれない。

*3:このことは前掲書にも書いてある。専門書においてもそうなのだから、ネットの世界ではなおさらであろう。

*4:この本は道路行政や交通警察行政、各種データなど道路交通にまつわるありとあらゆる歴史が詰まっている道路クラスタ必読の一冊である。論述編はほぼ全ての内容を何故かウェブで見ることが出来る。

*5:当時の通達などが載っている「警察要務」という本の該当月が国会図書館にはなかったのだ。

*6:なおこのホテルは関東大震災で倒壊したらしい。絵葉書が残っている

106「国道218号線」

20100403宮崎県高千穂町にて撮影

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◯標識の種類:106「国道218号線」(単柱式)

 

◯設置されている道路:高千穂町道10号線三田井〜三ヶ所線(国道218号線旧道)

 

◯概要:津花峠の旧道区間には106“おにぎり”も現存している。五ヶ瀬町高千穂町との境界から高千穂側におよそ2Km。当然国道指定を外れている今も残っていることは、大げさに言えば奇跡的でもある。白看の距離表示は国道や県道指定を外れたとしても、その表示に間違いがなければ(既に距離など変化している場合もあるが)、引き続き使用されていてもなんら問題ではないが、極端に言えば、国道を外れた場所でのこの表示は「間違い」である。

白看などの旧標識が残る理由はある種の「無頓着さ」であると思う。国道218号線旧道の鏡山峠や津花峠の区間は、現在の管理者でる五ヶ瀬町高千穂町の良い意味の無頓着さにより特異な道路風景が残っていると言えるだろう。

ちなみに何か補助標識的なものがついていたようだが、何だったのだろうか。塗装面が完全に剥がれ落ちた今は知る由もないがすごく気になる。

 

ストリートビュー

 

◯場所はこちら


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104「熊本/馬見原」

20100403宮崎県高千穂町にて撮影

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◯白看の種類:104「熊本108Km/馬見原20Km」(単柱式)

 

◯設置されている道路:高千穂町道10号線三田井〜三ヶ所線(国道218号線旧道)

 

◯概要:国道218号線津花峠旧道は高千穂町に入ってからも白看が現存している。それがこちらの104「熊本/馬見原」だ。3つ前の記事でご紹介した五ヶ瀬町側の104と同じ行先表示である。その距離表示は熊本が98Kmで、馬見原が12Kmであった。ここに大きな疑問がある。熊本行きは10Kmなのに、馬見原行きは8Kmしか増えていない。本来だったら熊本行きも馬見原行きも同じ距離だけ増えているはずだ。この津花峠を経由すればどこかでショートカットすることはないのだが、何故だろうか。同じタイミングで設置されたものと思われるから、単なるミスなのかもしれない。というか、ミスだろう。

なお、旧道はここから3Kmほど行くとバイパスと合流し、さらに2Kmほど東進すると高千穂町の中心部に到達する。

 

さて、熊本方面と高千穂町を結ぶのは2つのルートがある。まずは馬見原(蘇陽→山都)〜三ヶ所(五ヶ瀬)〜三田井(高千穂)とつなぐ津花峠経由、もう一つが高森〜田原(高千穂町田原)〜三田井というつなぐ高森峠経由、現在の国道325号線である。「高千穂町史(1973)」によると、三田井〜高森間の県道が完成したのは1895(明治28)年。津花峠経由の県道の完成(五ヶ瀬町史によると1897年、高千穂町史によると1898年)よりも数年早い。さらに、1913(大正2)年、初めて自動車で高千穂を訪れたという福岡の英国人アーサリーと宣教師のバーゲーも高森峠でやって来たようだ。当時はそちらの方が走りやすかったのだろうか。

しかし、国道昇格は津花峠が先で1954(昭和29)年5月(元の路線名は熊本延岡線)、高森峠経由は、1970(昭和45)年1月(元の路線名は高千穂大津線)であり、だいぶ開きがある。ちなみ国道325号線の改良は1988(昭和63)年からだ。自動車交通が盛んになってからは津花峠経由に分があったということか。

 

さて、何故かこの区間はストリートビューはカバーしていない。撮影車は荒谷に沿って現道に向かっている。さて、津花峠の旧道区間の白看の紹介はこれで終わりだが、机上調査でストリートビューを見ていたらとんでもないものを見つけてしまった。

今度津花峠に行けるのはいつだろうか。

 

◯場所はこちら


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地理院地図

101「五ヶ瀬町」

20100403宮崎県高千穂町にて撮影

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◯白看の種類:101「五ヶ瀬町」(複柱式)

 

◯設置されている道路:高千穂町道押方〜三ヶ所線(国道218号線旧道)

 

◯概要:前回紹介した101「高千穂町」から30mほど宮崎県側にある101「五ヶ瀬町」。コンクリート管の複柱式であること、鉄板で裏面の補強鋼が「二型」であることなどの特徴から、おそらく同タイミングで設置されたものであろう。破損がない分、状態は割かしよさそうだ。なお、「市町村」を表示する標識は、原則として境界線の30m以内に設置することが好ましいとされている(交通工学23 道路標識)。白看時代の市町村境を今に伝える重要な遺産である。

 

ストリートビュー


 

また、この町界よりも熊本側に300mほど戻った地点(詳細な場所はストリートビューをズームバックして確認されたい)にいにしえの案内標識とも言える道標が残っている。せっかくなので、この場で紹介したい。

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角柱の四面に字が彫られている。
写真左上から、
「宮崎元標四拾壹里 西臼杵郡三ヶ所村」…宮崎県の道路元標は現在の宮崎県庁の前、宮崎市橘通東一丁目にあり、現在も残っている。
「赤谷◯◯里貳拾九町九間壹尺」…劣化により判読できない文字があるが、赤谷は三ヶ所村の中心集落のことだろう(現五ヶ瀬町三ヶ所)。なお、宮崎元標への距離よりも表示が細かになっている。
「◯◯井参里貳拾七町四拾七間五尺」…◯◯井は三田井ではないだろうか。高千穂村を構成する集落の一つである。(現高千穂町三田井)
「明治卅五年十月建設」…卅は「三十」。 県道としての津花峠の車道開削完成が明治30年10月なので、交通増大に対応した道標設置だったのだろう。

 

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101「高千穂町」

20100403宮崎県五ケ瀬町にて撮影

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◯白看の種類:101「高千穂町」(複柱式)

 

◯設置されている道路:五ヶ瀬町道40号室野〜越次線(国道218号線旧道)

 

◯概要:前述のとおり五ヶ瀬町高千穂町の境界は津花峠ではなく、そこから直線距離にして東に1.5Km、道に沿って行くと3Kmほど東に存在する。そしてこの町界には101がそれぞれ残っていて非常に貴重である。熊本方面から来ると先に登場するのが101「高千穂町」。

大型車にぶつけられたのか、標識板の右側が破損している。そこから錆が出始めていて状態はベストとは言いがたい感じだ。複柱式であるが、鏡山峠のものと同様に支柱はコンクリート管でである。また、鏡山峠のそれはプラスチック合板のような素材で小さめの盤面だったが、こちらは正統派の鉄板である。裏はストリートビューで確認してみると、「二型」である。おそらく、鏡山峠の101よりは古いだろう。

 

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104「熊本/馬見原」

20100403 宮崎県五ケ瀬町にて撮影

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◯白看の種類:「熊本98Km/馬見原12Km」(単柱式)

 

◯設置されている道路:五ヶ瀬町道40号室野〜越次線(国道218号線旧道)

 

◯概要:国道218号線旧道の難所だった津花峠。峠の標高は679.5mで、北の桝形山(標高982.2m)、南の明神山(標高947.9m)の鞍部にあたる。気を付けないといけないのは五ヶ瀬町高千穂町の境界は峠ではなく、峠から直線距離で1.5Kmほど東にある。

五ヶ瀬町史(1981)にはこのような記述がある。

かつて「酷道」の名をもって悪名高かった二一八号線津花峠の険路も(p.513)

この五ヶ瀬町史が書かれたのは1981(昭和56)であるから、今から30年以上も前に「酷道」認定された「国道」だったのだろう。

この津花峠の歴史は古く、前回の記事に紹介した馬見原(現山都町)は徳川時代から明治初年にかけて豊後竹田に比肩する商業町で、高千穂郷の商品は殆ど馬見原ないし、竹田を経由してきたそうだ(現大分県道・熊本県道・宮崎県道8号竹田五ヶ瀬線)。そんな重要路の津花峠を村としてもいち早く改良したかった。1889(明治22)年には村道として開削することとなり、峠を40尺(12m)ほど掘り下げたらしい。更に1893(明治26)年には県道として車道開削の工事を起工、村内各個の賦役によって1897(明治30)年10月に完成。馬車が通れるようになった。昭和初期には五ヶ瀬町にも貨物自動車や乗合自動車が現れたようだ。

さて、前置きが長くなったがこの104は峠の頂上付近、東側に立っている。「馬見原」は前述のとおり旧蘇陽町の中心街だが、行政区域としての「馬見原町」は1956(昭和31)年9月に消滅している(周辺の2村と合併し蘇陽町発足)。これは仮説だが、行き先表示が「蘇陽」ではなく「馬見原」であることを考えると1956年より前の設置という可能性もゼロではないかもしれない。

標識板自体の状態は周囲に木があり日除けや雨よけになるのか古い割には錆がすくなく状態は良好である。

 1枚目の記事を書いた時には公開されていなかったが、津花峠もストリートビュー対応になっている。廃道とは言わないが、こんな旧道区間にまで調査が及んでいることが本当に驚きである。路面は2010年に訪れた時よりも少し荒れているようだ。

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地理院地図