105「白丸駅」

20100811 東京都奥多摩町にて採集

f:id:zaicchan:20100811150822j:plain◇“惹き”はそんなにないと思われる新しめの「105 著名地点」

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 ◇反射素材と「東京都」の管理シールが特徴である


◯白看の種類:105「白丸駅」(単柱式)

◯設置されている道路:国道411号(←旧東京都道甲府青梅線

◯概要:八王子を起点として甲府に至る国道411号の沿線にはいくつかの旧標識を見ることができる。当ブログでも山梨県甲州市の103の2などを紹介している。2000年より前くらいまではもっとあったのだろうと推察されるが、しょうがない。この趣味を始めるのが遅すぎただけだ。

また、ブログに載せることなどを考えもしなかったので、写真も2枚しか撮っていない。“寄り”の写真からわかることは、英語表記がしっかり白看時代のそれに則っていること(駅をSTN.とすること)。そして盤面の素材が反射シートで加工されていることだろうか。

一般的にこのような反射素材が用いられた標識はかなり新しいものと考えられる。ただメインテナンスを怠ると剥がれやすく、傷みやすいのが特徴で、各地で文字が読めなくなったこの手の標識を見かける。

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(上記写真のみ2012年8月29日撮影)支柱に「東京都」の管理シール、および管理番号「10-1-0411-7483」が貼られてある。ちなみに先代のこのブログでも言及しているが、標識の裏面には何も情報などはなかったようである。

しばらくこの辺を通っておらず近況はわからないものの、2014年5月のストリートビューでは健在のご様子。遠景だとなかなか味がある気がする。

 

 ◯場所はこちら

 

最後はやたら神々しくなった白丸駅の白看(2010年11月のストリートビュー)をご紹介してお別れです。

 

103の2「富士吉田 本栖/静岡 身延 下部温泉」

20121017 山梨県身延町にて採集

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◇T字路を示す103の2型の案内標識

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◇大きさや高さは現行の青看と何ら変わりない 

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 ◇山梨県は後年まで多くの103の2が残っていたが…


◯白看の種類:103の2「富士吉田 本栖/静岡 身延 下部温泉」(オーバーハング式・テーパーポール吊り下げ・3点支持)

◯設置されている道路:山梨県道9号市川三郷身延線(←市川大門下部身延線)×国道300号線旧道(←山梨県道中富本栖線)

◯概要:前回は山梨県甲州市に残る103の2型の案内標識を紹介した。山梨県では富士五湖周辺に多くこのタイプの標識があった。日本を代表する観光地ゆえに、多少コストをかけても集中的に設置されたのだろうか。 また、この標識が案内している交差点はかつて白看(103-B「本栖/市川大門)も存在していた。記事は以下のリンクを参照されたい。 

この標識が示す市川大門側(つまりこの紺看が向いている方向)には旧下部町の久那土と北川を結ぶ下部隧道(218m)が存在する。その竣工年は1967(昭和42)年6月とのことから、白看、紺看が設置されたのはその頃ではないかと推測される。

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裏面は前回の記事で紹介した甲州市の103の2のように補強鋼は現在の青看のそれに近いものになっている。2013年当時ではテーパーポールと縦の補強鋼の錆が目立っていた。

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甲州市の紺看と同様に新し目の路線シールが貼られていて、しっかりと管理されていることを伺わせていた。しかし…最新の2014年8月のストリートビューにはその姿がなかった。路面を見ると取材当時になかった滑り止めがつくられているので、恐らくそのタイミングで撤去されたものと思われる。残念無念。

 ◯場所はこちら

103の2「塩山駅/甲府/牧丘」

20100811/20131019 山梨県甲州市にて採集

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◇道路標識界隈では良く知られた103の2 、通称「紺看」。

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◇国道からは降格したがいまも絶賛道案内中。


◯白看の種類:103の2「塩山駅/甲府/牧丘」(オーバーハング式・テーパーポール吊り下げ・3点支持)

◯設置されている道路:甲州市道(町屋通り)(国道411号線旧道←山梨県甲府青梅線)×甲州市道×甲州市道(中央通り)(山梨県甲府青梅線旧旧道?)甲州市道上於曽80号線(国道411号線旧道←山梨県甲府青梅線)(町屋交差点)

◯概要:こちらは旧標識と現行の青看板の中間に位置する103の2、いわゆる「紺看」だ。このブログでは2回目の登場である。この標識の制定の経緯は下記リンクの当該記事に書いたとおり。白看では表現できない複雑な交通状況に対応するために、昭和37年から昭和46年まで制定されていた。

この案内標識「103の2」に多く見られる特徴は①矢印がえんぴつ型ではなく、矢尻型であること。そして②イラスト化された道路の矢鱈に太いこと。ただし制定当初は細身のものもあったようだ。また白看とは異なり③地名表示に小文字が交じること。

また撤去されたものも含めてこの103の2はほとんど関東ないし関西で確認されている*1
なお、同じ甲州市内にはかつてもうひとつ103の2が存在した(2012年6月のストリートビュー)。

さて、この標識が設置されたのはいつ頃だろうか。標識のある道路は1998(平成10)年の塩山バイパス供用開始までは国道411号線だった。また国道に昇格する1982(昭和57)年4月までは主要地方道甲府青梅線だった。向かって左側の道路、標識上では途切れているが現在は塩山バイパスと連絡するごく最近出来た道路だ。直進方向は古くからの青梅街道。中央線を越すガードなどにその名前が残っている。一方、右折方向は新道にあたる。1962年5月の空中写真を見ると建設中のようだ。その区間にある塩川に架かる湯の橋が1970(昭和45)年に架設されたようなので、おそらくこの交差点に右折方向が出来た際に建てられたのではないだろうか。

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裏面を見ると表側から見る印象とは異なり、現在の青看と同じような補強鋼が使われている。比較的新しいのもこの標識が残っている一因なのかもしれない。支柱を見ると下の写真のようなステッカーが貼られており、しっかり管理されているようだ。

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◯場所はこちら

*1:栃木県1 群馬県1 千葉県9 東京都4 神奈川県6 山梨県6 大阪府7 兵庫県2 滋賀県1

103-B「松山空港/松山」

20130717 愛媛県松山市にて採集

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◇まだまだ現役の拡大板

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◇標識の大きさに対しては華奢な標柱に支えられている

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◇拡大板なれど「セブンスター 別府店」の看板には負けてしまう


◯白看の種類:103-B「4Km 松山空港 →/← 松山 6Km」(複柱式)

◯設置されている道路:松山市道宮前118号線×愛媛県道219号砥部伊予松山線(三本柳交差点)*1

◯概要:愛媛県は比較的多くの白看が残っている。これからご紹介するこちらの103-Bは割に古くから白看愛好家に知られた物件だ。その理由としては市街地を走る現役県道上に残っているからであろうが、主要交差点のために大型板であり目立っているというのも考えられる。また傷みも少なく、今でも現役で道案内できていることが面目躍如と言ったところだろうか。

なおこの白看の向かい側に松山市街地方向を向いたもう一つの白看があった。2004年に台風で倒れたそうだ(103-B「↑ 松山空港 4Km/5Km 松山観光港 →」:「隧道探訪」さん記事  「dark的道部屋」掲示板より)。相棒がいなくなって取材時点では9年が経過している。そんな白看の詳細を見てみよう。

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標柱には愛媛県白看の特徴である「愛」「媛」「県」の3枚シールが貼ってある。片方だけあれば十分そうだが、丁寧にも両足にある(写真は向かって左側のもの)。

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裏面は大型板にも関わらず「二型」の補強鋼だ。こういう場合、吊り下げ型の白看のように「口型」のものもあるのだがそうではない。標柱を含め比較的鋼材が華奢な気がする。

肝心の設置時期だが、白看の向いている松山市道宮前118号線の素性がよくわからないため判断がつきかねている。北側を走る国道437号線(1982年4月に国道指定)の旧道(=三津街道=県道松山港線)*2にあたる気がするのであるが。また対となっていた白看の「松山観光港*3」は1967(昭和42)年3月に供用開始なので、おそらく1967-1969年頃までに立てられたのではないかと推測される。

なお、この取材は2013年のものだが、2016年時点ではちゃんと残っているようだ(若干錆付きが濃くなったか)(のっぽさん(@petitdx)さんのツイートより)。

◯場所はこちら

*1:市道名についてはこのサイトで調べた:http://www2.wagamachi-guide.com/matsuyamacity/index.asp?dtp=2

*2:その国道437号線の古三津跨線橋が1969年ごろ完成したようなので、それ以前?

*3:当初「高浜新港」と呼ばれた

103-B「黒之浜/阿久根」

20061214 鹿児島県阿久根市にて採集

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◇辛うじて読み取れる表示の行き先は…

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◇白看の背後に控えるのは「黒之瀬戸大橋」の青看。スタイルからして有料道路時代のものか。


◯白看の種類:103-B「??Km 黒之浜 →/ ← 阿久根 ??Km」(複柱式)

◯白看が設置されている道路:阿久根市道折口本線×鹿児島県道365号脇本赤瀬川線(←国道389線旧道)

◯概要:1枚目の写真を御覧いただきたい。下段の「阿久根」は辛うじて読み取れるが、上段は肝心の地名の部分が腐食して穴が開いており判読不可能である。以前のブログ記事では青看をもとに「黒之瀬戸」と推測していたが、今回改めて板面を見るにあたり、アルファベット表記に少なくとも"A"が含まれることを発見した。それでも見当ががつかなかったのだが、当時撮影した写真ファイルを見返すとこの白看の前に撮影した古い青看がヒントとなった。

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「黒之浜港」である。黒之浜は阿久根市の北部、長島に向かって突き出した小半島の先端に位置する。現在は「黒之瀬戸大橋」で結ばれている九州本土と長島だが、1974(昭和49)年4月の橋の完成までは県営の定期フェリー「黒之瀬戸丸」が黒之浜港と長島の瀬戸港を結んでいた。ということで改めて1枚めの板面を見ると“AMA”と読める気がする。というわけで不明だった1段目は「黒之浜」ではないかと推測した。

この白看については4年後の2010年6月19日にもう一度撮影している。すると虫の息ではないか。支柱が折れたのかばったりと倒れ、更に直接板面に天水がかかるようになったためか、辛うじて読めていた文字もほとんど消えかかっている。念ずれば「阿久根」がやっとわかるくらいであろうか。

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初回の取材では見落としていたが、支柱に「鹿児島県」の文字がある。向かって右側の支柱が折れたのか、板面と一緒に倒れている。こんな状況を道路行政もしくは地域住民がほおっておくわけもなく、最新のストリートビュー(2013年11月)では何もなかったように片付けられている。なお道路公団時代からの青看は健在のようだ。

なお、板面が拡大版であることから設置は昭和30年代後半〜昭和40年代はじめ(黒之瀬戸大橋架橋の事業許可が1970(昭和45)年なので)ではないだろうか。

◯場所はこちら

103-A「明石/大串/白水」

2017年7月30日 広島県大崎上島町にて採集

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◇個体数が少ない103-A in 瀬戸内の離島。胸熱です。

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◇単柱式ですが、板面が標柱の最上部にありません。

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◇生活道路の一角にぽつんと立っています。


◯白看の種類:103-A「↑明石7.8Km/↑大串4.3Km/←白水5.5Km」(単柱式)

◯設置されている道路:大崎上島町道×大崎上島町道(旧広島県道357号大西大西港線×旧広島県道65号大崎上島循環線)

◯概要:大崎上島は広島と愛媛にまたがる芸予諸島にある島。2017年現在、他の島と橋でつながっておらず、本土側だったら竹原や安芸津、四国側からは今治大三島の宗方港から船で渡るしかない。この島は知る人ぞ知る白看のホットスポットであり、ネット上で確認されているだけでも4枚現存しているという。ようやく2017年の7月末に上陸し撮影したのがこの1枚。@o_ishiguroさんのリストによれば、形式不明となっている。私も白看マップ作成の際にストリートビューで確認したのだが、至近距離からだとこう表示されるので、103-Bかと思っていた。ところが現地に来ると希少な103-A。思わず小躍りしたというわけだ。それではじっくり観察してみよう。

板面はサイズの拡大はなく標準的なサイズ。裏面は「二型」の補強鋼で昭和30年代のものではないかと推測される。下の写真のように裏面には設置票が貼り付けられていた。

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f:id:zaicchan:20170730162410j:plain残念ながらもともと記入されていなかったらしく、設置年月日などを知ることは出来なかったが、納入業者だけはわかった。「(株)日本パーカライジング広島工場」だ。大崎上島で確認できたほかの白看も同じ納入業者だった。この工場、ホームページに行ってみると今でも道路標識をバリバリに作ってらっしゃるようだ。しかも会社沿革を見ると興味深いことが書いてある。

昭和21年9月 進駐軍指定により広島県下全域の道路標識を広島県より受注、続いて警視庁、東京都、千葉県より発注あり、標識メーカーとして本格的操業を開始。 九州、四国、北陸地方各県に納入。

このように白看時代、多くの県で「日本パーカライジング広島工場」の標識が使用されていたのだった。

さて、今では生活道路にぽつんと佇むこの白看、いつ頃設置されたものなのだろうか。
線形からして県道の旧道どうしの交差点というのは明らかである。1962年5月の航空写真では旧道が本道になっているが、1975年2月の航空写真では互いの道が新道に切り替わっている。また、広島県道357号大西大西港線の「梅ケ浜橋」が1966(昭和41)年の架設*1のようなので、少なくともそれ以前の設置であることは明らかである。またWikipediaによれば現在の広島県道65号大崎上島循環線は1960(昭和35)年10月に広島県道281号大崎上島循環線として路線認定されているのでそのときに設置されたのかもしれない(となると一般県道であってもある程度、案内標識は整備されていたのだろう)。

◯場所はこちら

103-B「遠軽/旭川」

2014年7月10日 北海道上川町にて採集

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◇珍しい塗装なしのアルミ?ステンレス?板

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◇黄色のテーパーポールは開発局設置の証拠

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◇かつてここが幹線道路の交差点だったとはにわかに信じがたい


◯白看の種類:103-B「71Km遠軽→/↖旭川49Km」(オーバーハング式・テーパーポール吊り下げ・2点支持)

 

◯設置されている道路:【旭川方面】上川町道3・4・6公園通り(国道39号旧道)×【遠軽方面】上川町道(国道39号線道道遠軽上川線→国道273号線)×【層雲峡方面】上川町道(上川日東線→国道39号線

 

◯概要:旭川から網走方面へ車で40分。ここは北海道上川町。中心部から2キロほど山手に入ったところにひっそりと白看が残っている。上の写真の警戒標識にあるとおり、ここはY字の三叉路の一角にあるのだが、この道のすべてがかつて国道の旧道であった。すなわち…

 ■旭川方面:地方費道旭川根室線(1920-1952)→国道39号線(1952-1964)〔国道が越路峠経由から安足間経由の新道に変更されたことによる〕→町道降格(1970?-) 

 ■遠軽方面:国道39号線(1952-1960)〔国道が遠軽経由から層雲峡・石北峠経由に変更されたことによる〕→道道遠軽上川線(1960-1970)→国道273号線(1970-1977以前)→町道降格(1977以前-)〔バイパス建設によるルート変更〕

 ■層雲峡方面:町道上川日東道路(?-?)→道道留辺蘂上川線(1957-1960)→国道39号線(1960-1963頃?)→道道遠軽上川線(1964?-1970?)→国道273号線(1970-1977以前)→町道降格(1977以前-)

 

ざっと机上調査でわかるだけでまとめてみたが、ものすごく複雑である。道央から道東へ向かう国道39号線は1960(昭和35)年にそれまでの遠軽方面北見峠を経由するルートから層雲峡方面石北峠経由に変更され、距離が短縮された。その変更の分岐点がこの白看が立つ交差点であり、従って3方向すべて国道39号線だった時代があるのである。それに加えバイパス化もされている。

◇1977(昭和52)年頃の現地周辺。バイパスなどはこの頃すべて完成し、道路の様子はいまとそれほど変わっていない。早めに道路の改良が終了したことから耐用年数のまだ浅かったこの白看が残ったと言えるかもしれない。


さて、白看を観察してみよう。特徴的なのは板面がぎらりと銀色に光っていること。材質は塗装なしのアルミなのかステンレスなのか判別がつかないが、非常に珍しいタイプ。このほかは岩手県久慈市山形町にある103-B「葛巻/野田」くらいではなかろうか。

テーパーポールの支柱は黄色の開発局仕様。 裏面は大型版の標準的な補強金物の取り付け方である「口型」である。そして嬉しいことにこの白看には管理票が貼られてある。

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望遠レンズで可能な限りよってトリミングし拡大したのが下の写真である。①標識番号105-Bは高速道路の標識群が制定された昭和38年7月の標識令改正以降のものだ(なお、このブログでは便宜的にそれ以前の番号を記事に用いている)。②管理者は北海道開発局遠軽方面の国道39号線道道に降格したあとも開発局が管理を行った。③そして重要なのがこの納入年月。「昭和44年3月」は1969年。旭川方面は国道39号線降格後の町道、遠軽・層雲峡方面は道道遠軽上川線だったようだ。納入者は㈱大宮ホーロー北海道製作所。昭和30年代から今にいたるまで道内の道路標識を多く作っているようだ。

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 白看一枚から道路の歴史がたくさん読み取れる。なおこの記事の作成にあたっては「3ケタ国道走行記」さんの「北海道の道の話」「道道資料北海道」さんのサイトを参考にさせていただいた。

 

◯場所はこちら

103-A「瑞穂/篠山/亀岡」

2004年11月2日 大阪府能勢町にて採集

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◇これが12年前はじめて撮影した“白看”


2009年9月29日 採集

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◇T字型の交差点の交点に正対し設置されていた

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◇最初に撮影して5年後に再訪したときは健在だったが…


◯白看の種類:103-A「↖瑞穂21Km/↖篠山19Km/23Km亀岡→」(単柱式)

 

◯設置されている道路:国道173号線×能勢町道(旧大阪府道福住池田線×旧大阪府道天王亀岡線)

 

◯概要:12年前、私がはじめて白看を「何か珍しいもの」として撮影した記念すべき1枚。ここは大阪府能勢町天王。大学生だった私は購入したばかりの中古のリトルカブで主に北摂の古い道を走り、出たてのデジカメで記録していた。特に国道173号線は旧道区間が多く、探索するにはもってこいだった。この白看がある「はらがたわ峠」も例に漏れず何度も訪れた。国道173号線の最高所(標高580m)であるこの峠、改良もこの国道で最も遅く、1990(平成2)年のことだった。この区間の歴史については「3ケタ国道放浪記」さんのページに詳しいです。

 

それではこの白看の観察をはじめよう。板面のサイズは拡大なしで小ぶりな印象。支柱は単柱式で丸い鋼管が用いられているようだ。裏面は残念ながら写真を撮っていないのだが、おそらく二枚の鋼板で補強されているタイプのものだと思われる。また、特徴的なのは地名の英語表記のフォント。OやUなどの文字に顕著だが、文字の角を直角ではなく「角丸」のような形で処理している。また3段目の「亀岡」の表記の部分は5年経って錆がひどくなっているようである。そして下のストリービューが現在の当地である。

 執筆当時(2017年1月1日)のストリートビューは2013年9月撮影のものである。従って2009年から4年間ほどの間に撤去されたということになる。
さて、この白看が立っていたのは現在は国道173号線と旧道、現在は能勢町道となっているはらがたわ峠方面の道の交点だが、白看の表記を考えると右方向(つまり173号池田方向)はバイパス開通以前より亀岡へ抜ける道が存在したと考えられる。Wikipediaのお手軽調査によると現在の大阪府道731号天王亀岡線は1959(昭和34)年に認定されている。現在は173号交点が起点になっているようだが、長くは白看が立っていたこの交差点が起点だったのではないか。また国道173号線は1963(昭和38)年に国道昇格している。おそらく建植はこの間の時期ではないだろうか。

 ◇地理院地図での航空写真表示。1975(昭和50)年撮影の航空写真。ポインタ部分が白看が存在した交差点。右手亀岡方面に道が伸びているのがわかる。


さて、このはらがたわ峠の頂上には、白看よりも有名かもしれないこの標識が立っていた。かなり錆びついた210「注意」の警戒標識である。補助板に「降雪 凍結」とあることから冬期の通行は大変だったようだ。

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しかし、この旧道の峠、土砂の崩落により2013年の秋ぐらいに通行止めになった。そのときにこの標識も巻き添えを食らい、ご臨終となってしまったようだ。道路に関しては2014年5月3日時点ではまだ通行止だったようだが、6月23日には通行できるようになったようで、今はふつうに通行できるらしい。

 

◯場所はこちら

104「玉名/南関」

20100607/20151007福岡県八女市にて撮影

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◯白看の種類:104「玉名30Km/南関12Km」(単柱式)

 

◯設置されている道路:熊本県道・福岡県道4号玉名八女線(矢部谷峠)

 

◯概要:福岡県と熊本県の県境、矢部谷峠のもうひとつの白看がこちら。福岡県側を向いている。比較的日が当たりやすいという設置されている場所の影響かご覧のとおり盤面は全体的に錆びている。横に潰れたようなフォントも特徴的で、「玉」の字の“点”の位置が独特である。

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また、この標識の支柱を見ると、辛うじて「福岡県」と書かれてあるのが読み取れる。県境に設置される標識のそれぞれの土木事務所に対する分担がどうなっているかはわからないが、この矢部谷峠では福岡県側に向いてある標識は福岡県で設置したとかんがえられる(逆車線の白看については判別できず。ただし筆者はフォントの特徴などからこちらも福岡県の設置ではないかと考える)。

さて、この項の1枚目と2枚目の写真にも写っているが、この峠には昭和4年11月に設置された県界の標石があって、こちらも福岡県による設置のようだ。なお、同じタイプの標石は隣の鹿牟田峠にもある。それぞれ至福岡六九.五四二米(十七里二十五丁)/至熊本五二.九九七米(十三里十七丁)と表示されている。

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ストリートビュー

 ◯場所はこちら

104「久留米/八女」

20100607/20151007福岡県八女市にて撮影

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◯白看の種類:104「久留米30Km/八女14Km」(単柱式)

 

◯設置されている道路:熊本県道・福岡県道4号玉名八女線(矢部谷峠)

 

◯概要:ここは筑肥山地の山中、福岡県と熊本県の県境にあたる標高260メートルの矢部谷(やべだに)峠である。ここには福岡県側、熊本県側それぞれに旧式案内標識・方面及び距離104が残っている。まず最初に紹介するのは熊本県側に向いたこちらの白看。外観上の特徴は、盤面の全面でビス止めしてあること。これは裏面に補強鋼がない“鉄板一枚物”タイプで、白看の中でも最も古いタイプのものである。よく見ると「清文」という文字が彫りつけられている。いにしえのいたずら小僧の名前だろうか。

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設置されている県道4号玉名矢部線は1954(昭和29)年に「主要地方道福島玉名線」として指定された。早ければこの時期に設置されたものではないだろうか。なお、以前紹介した国道442号線に残っている104も盤面のつくりがほとんど一緒のようなので、おそらく同時期の設置だと思われる。

ストリートビュー

この峠の周囲は下掲の電子国土を見てもわかるとおり果樹園が多い。その多くはみかん園であるが、これは戦後になされた、耕地の少ない白木谷(福岡県)側から和仁谷(熊本県)側へ 峠を越えた進出なのだという。なお、矢部谷という集落が峠の南側にある。

◯場所はこちら