101「北川村」/102「宮崎県」

20100606/20140812大分県佐伯市にて撮影

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◯白看の種類:101「北川村」/102「宮崎県」(複柱式)

 

◯設置されている道路:国道10号旧道

 

◯概要:国道10号は北九州市小倉北区から鹿児島市までを結ぶ、言わずと知れた東九州の大動脈である。福岡、大分、宮崎、鹿児島を通るこの路線の最大の難所とも言えるのが大分県佐伯市と宮崎県延岡市の県境・宗太郎峠である。国道10号線に並行する日豊本線はこの区間(市棚-重岡)が最後に完成(1923(大正12)年12月)、道路はようやく1959(昭和34)年4月に「佐伯国道宗太郎峠改良工事」として一次改築に着手、県境付近の区間は1963(昭和38)年に着工、事業費約20億円をもって1966(昭和41)年度末までには舗装工事まで完了した。この白看は宗太郎峠の旧道の県境に残るもので、写真のとおり周囲はすっかり廃道である。
なお、平成の大合併前は大分側が南海部郡宇目町(-2005(平成17)年3月)、宮崎側が東臼杵郡北川町(-2007(平成19)年3月)であった。101の表示は「北川村」である。町制施行は1972(昭和47)年11月でその時は既に白看時代は終焉を迎えている。

この区間の改築の困難さについては、九州地方建設局佐伯事務所「佐伯-40年のあゆみ-」(1992年)に以下のように記されている。

国道10号の改築を語る時、宗太郎地区を抜きにしては語れない。なぜならば、工事条件の悪い約10kmの区間をわずか2ヶ年で概成させたほどの突貫工事であったこと、細長い地域に10社以上が競合する異常なまでの出合丁場であったこと、または日本では考えられないほどの辺地での工事であったこと、(中略)宗太郎の附近は鐙川沿いの山腹を縫った山岳道路で、しかも鉄道と並行し、多くの平面交差があるとともに、屈曲が多い見通しのきかない砂利道で、自動車交通には想像を絶する悪路だった。(p.243)

現在の国道10号は宗太郎を過ぎると鐙川を右に左にと渡り、県境を超える直前に切込橋(L=55)で右岸に戻っている。一方改良前の国道は基本的に右岸を走っていた。地理院地図でも道路の表記は消滅しているが、この白看が立っているのは以下のとおりの日豊本線の線路の側である。当時はこの先に踏切があったはずなのだが既に失われている。1975(昭和50)年の航空写真(下図)を見るといくつか建物が旧道沿いに残っているようである。単なる造林小屋なのか峠の茶屋的なものがあったのか気になるところである(建物の基礎は現在でも残っていた)。

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上掲の写真は県境方向から宮崎側を撮影したものである。現在の国道は右側、白看が残る改良前の国道が左側で、少し高い場所を走っていたことがわかる。確かに車が一台通れるくらいの狭い道で、交通のネックであることが理解できる。なお、1枚目の写真を見て頂ければわかるが、白看がある附近は道幅が広くなっており、離合や休憩に使われていたようだ。

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裏面は「二型」の補強鋼で、支柱は宮崎県の白看に特徴的なコンクリート支柱。 前述の一次改築のタイミングなどから昭和30年代前半〜半ば頃の設置だろうか。なお、大分側には標識関係の遺構はなかった。

 

◯場所はこちら