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白看前史(4)

白看前史、前回は1921(大正11)年11月に制定されたいわゆる「大正標識」を中心に紹介した。実はこの年に自動車の登録台数ははじめて1万台を超えた(12,091台)。その数は、1932(昭和7)年には10万台を突破(100,221台)し、日本は瞬く間に「自動車の時代」へ突入しようとしていた。

 しかし、今で言うところの案内標識が1種類と警戒標識が7種類しかない状況では増加する道路交通に対応しきれなくなり、昭和の初め頃から新たな道路標識の体系を模索する動きが活発となる。

昭和五年照明學會は交通整理委員會を設置し、道路標識の研究を遂げ、一試案を公表してゐる。國際道路會議が昭和七年獨逸に開かれた時、之の道路標識が議題となり、我國からは上記の照明 學會の道路標識が報告として提出せられた。(金子源一郎『道路:road engineering & management review』「道路標識(道路標識委員會報告)」p.26、1940年

昭和5年11月、照明学会の中に交通整理委員会が設置された。照明学会は「1916年(大正5年)11月29日に創立され、わが国における照明技術の発展や照明知識の普及に大きく貢献してきました。」(照明学会HP)とある。なぜ照明学会が道路標識と関係あるのかはっきりした言及を見つけることは出来なかったのだが、おそらく信号(広い意味での照明だ)や道路標識の視認性の研究において照明学会の中に入っていることが有効だということだったのだろうか*1

この交通整理委員会の委員長である佐藤利恭は内務省の人である。昭和12年の「地方鉄道軌道主任技術者会議録」には「内務省技術局第二土木課長」の肩書で、

私は大正七年に内務省に入りまして以来、今日までずつと道路軌道等の交通機關に關する事務を扱つて居つたのですが(地方鉄道軌道主任技術者会議録p.9、1937年)

と挨拶している。 また1923(大正12)年、スペイン・セビージャで開かれた万国道路会議にも出席している*2ようだ。

上記の金子氏の言う「一試案」は1933(昭和8)年の照明学会雑誌第17巻第7号に「報告 交通整理標準」として掲載されている*3。この論文では道路標識に限らず信号をはじめとする交通整理の方法、踏切、駐車場、歩道、横断歩道などの設置実施案が網羅されている。それでは、道路標識の項(この論文では「交通標識」と記されている)について見て行こう。

  • 交通整理標準(交通整理委員會報告)1933年

冒頭に「交通標識」の定義が記されてある。

交通標識は交通事故防止竝に道路の效用を增進する爲に設置するものにして形狀及色彩に依りて標識の意義を表示するを主眼としこれをに補助として簡單なる文字又は記號を併用す。 (佐藤利恭『照明学会雑誌』「交通整理標準(交通整理委員會報告)」p.34、1933年)

また、その設置方法、設置場所についても記載がある。このような実用的な側面について具体的に言及されたのは初めてではないだろうか。

標識は一般交通より見易き箇所を選び必要に應じ照明装置を附するか又は反射鏡を用ひて之を明示すべし,従つて之に類似し又は其の效果を妨ぐるが如きものの設置を禁止すべきものとす。(佐藤利恭『照明学会雑誌』「交通整理標準(交通整理委員會報告)」p.34、1933年)

この論文では11種類の標識が提案されている。内務省出身の佐藤が委員長となっているためか、基本的には1921年の内務省令第27号「道路警戒標及道路方向標二關スル件」で制定された標識群の補足・発展という形となっている。

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イラストは左から1.「踏切標識」2.「踏切近し標識」3.「交叉近し標識」4.「横斷歩道標識」である。踏切関係の標識が2つある。そのうちの「踏切標識」は今日の踏切警報機にそっくりでありが、カラーリングが白と黒の縞模様になっている。
その理由について「色彩に關しては從來一般踏切門扉が白黑交互の縞塗りとするを普通とするを以て本標識も亦之に倣ひ白黑の縞塗りとなせるものなり」とある。事実、こちらの記事に踏切門扉の写真があるが、白黒に塗り分けられているようである。
「踏切近し標識」については、大正標識についても制定されているのだが、それに依らなかった理由を但し書きで以下のように書いている。「(1)踏切標識の形式に合致せしむるを必要とし(2)國民の多年の慣行上本形式は直に踏切なる感念を腦裡に反映し易きこと(3)塗粧容易にして遠方より看易きこと」(4)鐵道軌道業者は現に本型式を採用しつゝあること等幾多の利點ある爲なり」としている。つまりデザイン的にも普及の面からもあまり上手く行っていなかったことが伺える。

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続いてのイラストは左から5.「安全地帯標識」6.「停止線標識」7.「通行止標識」(3種類例示されてあった)8.「制限附通行止標識」である。そのうち安全地帯と停止線を示す標識は、それぞれの設置提案と密接に関連している。この論文では安全地帯を「一般横断歩道用安全地帯」と「電車用安全地帯」分けられている。ちなみに歩道用は片側2〜3車線以上の横断歩道の中間への設置を想定していた。「停止線」は横断歩道の後方2mの位置に表示するものとしていた。

「通行止」については白看前史(1)で紹介したように1899年に警視庁が発布した「通行止の制文制札令」に定められていたが、改めて交通標識としての表示が検討されたようである。また、「制限附通行止標識」について、盤面に描かれる制限が3つ(「1. 營業用空車通行止 2.午前10時ヨリ午後10時マデ營業用空車通行止 3.荷車通行止」)例示されている。営業用空車通行止は、次の道路標識令(1942年)で採用され、1950年まで使用された。

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続いては9.「曲線標識及阪路標識其他」とまとめられているものである。基本的には「道路警戒標」で制定された標識に準じている。制定当時の官報に載せられた図との違いは「左曲り」などの表記が左横書きになっていることである。一般的に戦前は右横書きが多いような印象があるが、実際には技術書などを中心に英語などの影響による左横書きもそれなりに存在していたようで、技術者中心に検討を行った現れと言えるのかもしれない。最も右のイラストは「其他標識」とまとめられているもので、文字のみで表記されるものである。以下7つのパターンが例示されている。「1.速度制限(「時速15km以下」の如し」)  2.駐車禁止 3.駐車場 4.左側通行 5.空車轉廻禁止 6.右大廻,左小廻 7.停車禁止」である。

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最後は10.「一方交通出入口指導標識」と11.「道路方向標識」である。前者については道路上への懸垂や壁面への取り付けも想定されていた。道路方向標識は図板に地名の記載がなかったが、基本的には「道路方向標」に準じるデザインであることがわかる。

 

さて、冒頭で引用した金子氏の論文にはドイツでの国際道路会議でこれらの道路標識の案を提出したとある。1934(昭和9)年9月3日から6日かけてドイツ・ミュンヘンで第7回国際道路会議が開かれたのだが、この会議のレポートはある議題に対してそれぞれの国の対応や事情を記すことになっており、このレポートは「Means adopted to promote the safety of traffic in: a) Towns; b) The open country; c) At level crossings. Legislation; regulation; Road signs.」という命題の解答である。執筆者は前述の佐藤の他に「Gunji TAKEI」とある。この人は後に山口県知事や厚生次官も務めた武井群嗣。当時の肩書は内務省道路局長であった。ちなみにサッカー日本代表としても2試合に出場している。

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「交通整理標準」との違いは、9.「曲線標識及阪路標識其他」の其他標識の例示が「時速拾五粁以下」になっていることと、11「道路方向標識」について文字が入っているところである。

しかし、実際に道路交通を司るのは各警察や自治体であり、内務省の検討云々を待っている余裕はなかったのだろうか。この頃、以下の様な動きが出てくる。

警視廳は昭和九年交通標識を制定し、大阪府も亦同年*4道路標識を制定してゐる。各府縣又之に倣ひ色々の標識を用ひるに至つた。(金子源一郎『道路:road engineering & management review』「道路標識(道路標識委員會報告)」p.26、1940年

ということで次回は警視庁や大阪府が制定した道路標識を見ていくことにする。
(続く)

 

*1:実際に1987年には小糸製作所の稲垣襄二さんが「道路標識」という論文を書いている。

*2:中外商業新報 「万国道路会議 出席者決定す」1922年12月20日

*3:J-STAGEでこの論文を読むことが出来る

*4:おそらくこれは誤りで大阪府独自の交通標識が制定されたのは昭和7年7月である。