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白看前史(3)

  • 道路警戒標及道路方向標二關スル件(内務省令第二十七號) 1921年11月

1921(大正11)年11月9日は日本の道路標識史上記念すべき日となった。この日、初めて全国的に統一された道路標識についての通達が内務省から出されたのだ。「道路警戒標及道路方向標二關スル件」という名称で、同日に発行された「官報 第3083号」に掲載された。以下のように国立国会図書館のデジタルコレクションで見ることが出来る*1

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以下に全文を転載する。

内務省令第二十七號道路警戒標及道路方向標二關スル件左ノ通底ム
 大正十一年十一月九日 内務大臣 水野錬太郎

第一條 道路ノ屈曲部、坂路其ノ他交通上危險ノ處アル箇所二對シ必要アル場合二於テハ道路警戒標ヲ建設スヘシ 
第二條 十字路、丁字路其ノ他ノ箇所ニ對シ交通上必要アル場合ニ於テハ道路方向標ヲ建設スヘシ
第三條 道路警戒標及道路方向標ヲ建設スル場合ニ於テハ別記様式ニ依ルヘシ
第四條 道路警戒標ハ第一条ニ規定スル箇所ノ前後八十メートル乃至百四十メートルノ地點ニ於テ道路ノ方向ニ面シ左側路端ニ之ヲ建設スヘシ但シ市街地ニ在リテハ相當其ノ距離ヲ短縮スルコトヲ得
第五條 道路方向標ハ道路ニ面シ路端ニ之ヲ建設スヘシ
附則  本令ハ公布ノ日ヨリ之ヲ施行ス


 「道路警戒標」は現在の警戒標識である。意味としては交差あり、右カーブあり、左カーブあり、上り坂あり、下り坂あり、踏切あり、学校ありの7種。三角板が支柱の最上部に設置され、その下に警戒標が取り付けられていたようである。また本文中の備考にあるが、三角板は赤色、警戒板は黒色で、文字やマークは白色で描かれることになっていた。なお、禁止標識に類するものは制定されなかったので、1899(明治32)年の「制文制札令」における通行止榜標が引き続き使用されたようだ。

 

一方の「道路方向標」は現在の案内標識にあたり、板面は白色、文字や矢印は黒色で表示されていた。これまであまり指摘されていないと思うのだが、構造が特徴的で、理解するのに少し時間を要するのだが、十字路の場合は標識板を十字に組み合わせ三叉路の場合はT字に組み合わせて使用していたようだ。つまり進行方向から見れば、官報の図のように見えるのだが、真ん中に左右の交通用の標識板が50センチほど出ているので、視認性はどうだったのかなという感じがする。またこのような形態だということは十字路の場合は交差点の真ん中に設置されるのが前提だったのだろうか。

 

さて、愛好家に「大正標識」として知られる「道路警戒標」。制定から88年を経た2009(平成21)年にネット上でその残存が発表され、大きな話題となる。2009年1月19日 2:05に「マフ巻隧道BBS」に書き込まれた「メタルほら吹き」さんの投稿である。

はじめまして。いつも楽しみに見せて頂いております。有難うございます。 10年来気になる高松市塩江町、旧塩江街道の超旧標識です。 http://map.yahoo.co.jp/pl?type=scroll&lat=34.17631805&lon=134.07640216&sc=5&mode=map&pointer=on&home=on&hlat=34.339475&hlon=134.04935389 白看どころか・・・!(もう有名でしたらすみません)今後とも宜しくお願いします。

多くの人たちがこの書き込みをきっかけに塩江詣でに向かったのは言うまでもない。全国的にもかなり有名になった。ご多分に漏れず私も2013年1月5日訪問してきた。というわけでここからは文化財級?の価値ある大正標識のリポートをお届けする。まずは全景をご覧頂く。繰り返すが、博物館などに飾られているわけではない、現役であるということを強調したい。

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まず、各パーツのアップをご覧いただこう。三角板部分はご覧のとおり。真ん中の白い部分に5点ビス止めされている。裏面はぴったり電柱にくっついていたので良くわからないのだが、中央の3つは支柱に、左右の2つは補強板を留めているのだろうか。

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警戒標部分はこちらであるが、官報に出ていた見本とは違う。「上り坂/下り坂」の表示に似ているが矢印ではなく、「屈曲多し」とある。大正標識には各県オリジナルの様式で作られたものも多く、これもその一つなのであろうか。支柱には3点のビスで留められている。このように標識板の上から留めるのは、ごく初期の白看にも見られる特徴だ。

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設置から少なくとも70年近く経過している標識なので、もちろん相当の傷みはあるのだがよく現場が保たれているのではないか。下の写真は警戒標の裏面だが、文字が書いてある表面の板面と、その後ろに補強板とも言えるべきもう1枚の鉄板が合わさっているのがわかる。「屈曲多シ」と「百米先」の文字の部分にそれぞれ2つずつビス留めがある。裏面は写真が撮れなかったが、三角板も同様の構造になっているものと思われる。

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現在は国道193号線に指定されてある塩江街道は「高松の奥座敷」と言われる塩江温泉への道として古くから開かれていたようである。この道は標識が設置されている先で香東川を岩部橋で渡る。「屈曲多し」の意図するところはこの橋に至るカーブ(少し下の写真でも見えている)のことであろう。なお、塩江温泉へは並行して琴平電鉄塩江線が高松市内から走っていた。この路線は1941(昭和16)年5月に不急不要線とみなされ全線廃止、線路などは鉄材供出に充てられたことを考えると、この標識が残ったのも奇跡的なことかもしれない。なお、標識自体はもとあった場所から数十センチ移動している。いしぐろ(@o_ishiguro)さんの現地調査によると電柱工事の際に移動させられて紐と針金で新しい電柱に縛り付けられたのだとのこと。本当に、今まで残っていてくれてありがとう、という気持ちになる。

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◯場所はこちら


より大きな地図で 白看マップ を表示

 

さて、この「道路警戒標及道路方向標二關スル件」で制定された8種の道路標識は昭和17年に「道路標識令」として大改定されるまで、およそ20年間にわたり使用されるわけだが、予算不足もあり整備普及は進まなかったようである。以下の2つの論文がその状況を表している。

 さて現行の警戒標、方向標が現在何の程度普及して居るかと言ふに、遺憾ながら其の普及成績は甚だ芳しくない。また、その設置ある府縣の中でも、其の形式や記載方式などは、是亦思ひ思ひであって(谷口松雄『道路の改良』「道路標識の改正に就いて」19巻11号 p.48-51、1937年)

其の種類は至つて少なく、僅に七種の警戒標識と一種の道路方向標を定めているに過ぎない。自動車が未だ發達しなかつた時代に於いては勿論之で宜かつたのであるが、今日の様に自動車交通が頻繁になつては、之の程度の標識で圓滑に自動車交通を整理して行くことは不十分なので(金子源一郎『道路:road engineering & management review』「道路標識(道路標識委員會報告)」p.26、1940年

 というわけで、徐々に増えて行く自動車交通を捌ききれなくなったようで、官民合わせて道路標識の研究が始まり、一部は実用に移される。その成果が私たちの大好きな「白看」につながっていく。というわけで次回は「道路標識百花繚乱時代」とも言える昭和初期の状況をご紹介したいと思う。

*1:官報のイラストは白黒だが、サイト「道路交通関係条約集」さんのようにきれいにイラスト化されている方もいらっしゃる。色がつくだけでも当時の雰囲気はビンビンに伝わるのでぜひご覧頂きたいと思う