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特別連載:白看前史(2)

  • 海外の道路標識の発展について

さて、自動車交通の発展については当然ながら海外のそれが先行しており、道路標識についても同様である。日本の道路標識は大正以降、海外の影響を色濃く受けるようになってくる(前回紹介した「日本自動車倶楽部の道路標識」も海外の自動車クラブのものを下敷きにしている)。

フロリダにある道路標識製造会社“Municipal Supply & Sign Company”のブログページに海外における道路標識の歴史が簡潔にまとまっているのでご紹介したい。

海外の道路標識の端緒はローマ時代のマイルストーン(里程標)である。紀元前120年頃、ローマ帝国の道路関連法「センプローニウス法」に基づき、主要な街道の1ローママイルごとに設置することが定められた。もちろんこれはローマへの距離を表示している。中世には現在の案内標識のような複数の目的地への距離表示が付いた道標が登場した(=Fingerpost)。

時代は進んで1870年代後半から1880年代前半、自転車を利用した長距離旅行が行われるようになった。あまりよく知らない場所を通行するため、各所の「スリップ注意」「急坂注意」などを表示する必要に迫られていた。1895年には“Italian Touring Club”によって近代的な道路標識の体系が提案され、実際に設置もされたようだ*1。また、1900年パリで行われた“Congress of the International League of Touring Organizations”*2は道路標識の標準化についての検討を行ったとある。

さて、かなり前置きが長くなってしまったが、ここからが日本の道路標識と交わりが生まれてくる。1908(明治41)年、世界初の道路に関する国際会議がパリで行われ、*3以下が議決された。

That the system of road measurement by means of mile stones or mileage posts should be re-modulled as soon as possible, and standardised for each country.

(里程標などによる距離表示の仕組みはできるだけ早く再構築し、各国で標準化されなければならない)

旧来のマイルストーンの時代から「道路標識」の時代に移り始めたことがよくわかる。その翌年、1909(明治42)年には“世界道路協会(PIARC)”が設立された。日本は1910(明治43)年に加盟したようだ*4

道路標識に関しては、1913(大正3)年6月23日〜6月27日、ロンドンのクインホールで行われた第3回万国道路会議で盛んに話し合われたようだ。報告集にはドイツ、オーストリア、米国、フランス、英国、イタリアの里程標や道路標識の現状報告や統一標識の提案などが掲載されている*5。この会議に日本から初めて(?)、当時の内務省土木局長、久保田政周が出席している。諸外国の道路標識についての見識もこの久保田によって持ち帰られたのかもしれない。

 

 その後の数年間で、世界的な流れであった国家としての道路標識の統一事業が日本でも進められていたようで、1921(大正11)年3月15日、新聞にこんな記事が掲載される*6

道路標識 様式の発表

万国道路協会で決定した自動車其他の交通の為めに設く道路標識は目下県土木課に作製中で近く神戸市郡境界より姫路に至る間及び西宮、伊丹、尼崎、宝線道路に設定すべく 其様式の発表を見たが右は既報の通り高さ五尺に二尺、記号板に記号を書き其下に記号説明を加えると…(神戸又新日報 1922.3.15)

 「万国道路協会で決定した」とは上記の万国道路会議のことだと考えられる。続いて6月には以下の記事が登場している。ちょっと長いが引用する。

全国一斉に立てる道路警戒標
内務省が一大奮發で差當り自動車道路へ

交通上の不祥事が道路の悪いことに起因することが多いのは今更云う迄もないと言って乱雑な都市の道路を根本的に改造することは今日の場合早急には出来ない相談
其処で今回内務省でも事故を防止する為め全国の道路に道路警戒標識と云うものを立てる事に決し来月四五日頃省令を以て公布する筈である
去る大正三年倫敦に開かれた第三回万国道路会議の席上万国統一的に道路に標識する事に決した今回は其様式に依って全国的に実施するものである
従って広告を兼ねた民間の道路標識は一切取除かれるそうである、此の標識は経費の点から全国悉くの道路に実施する事は困難なので自動車が通行する道路丈けに先ず施されるが其計上された総距離は約七千哩に達し此区間に於て例令ば四つ角、坂曲り角、鉄道踏切等の危険の地点前後五十間乃至八十間の処に立てるので其標識一本は約十円を要す
総費用は可なり多額のものであるから各府県で分担する事になり省令が発布された後府県で準備成り次第実施することとなろう尚道路警戒標の一種として道路方向標をも併せ造ることになった之は停車場に建てられてある駅名板のようなもので其表面に地名方向距離の三つが記されてある又飽まで危険防止の目的を達せんために尚此外に自動車道路地図も全国各地に亘って作成するそうである(東京電話)(大阪時事新報 1922.6.23)

ロンドンの万国道路会議で「万国統一的に 道路に標識する事に決した今回は其様式に依って…」とあるとおり、何らかの統一様式に関する見解が出されたのかもしれないが、資料を見つけ出せていない。また「広告を兼ねた民間の道路標識」というのはその当時盛んに設置されていたようで、もしかして前回紹介した「日本自動車倶楽部の道路標識」もこの時に撤去されたのかもしれない。もしそうだとしたらかなり10年足らずの短命だったことになる。そしてついに法制的に日本初の統一された道路標識が登場する。(続く)

*1:Our history

*2:この組織についてはちょっと調べたがどういうものかよくわからなかった

*3:International Road Congress、日本語では「万国道路会議」と訳されることが多かった

*4:世界道路協会日本語ページ

*5:世界道路協会のHPで無料で登録をすれば読むことが出来る

*6:ここから2つ紹介する新聞記事は「神戸大学附属図書館 新聞記事文庫」による。戦前の新聞に切り抜きが数多く収集されており、検索も可能。非常に素晴らしい。