103-A「寺泊/弥彦山/弥彦」

20140419新潟県長岡市にて撮影

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◯白看の種類:103-A「↑寺泊?Km/←弥彦山10Km/←弥彦8Km」(複柱式)

 

◯設置されている道路:長岡市道×長岡市道寺泊1号線

 

◯概要:新潟県長岡市弥彦山脈を縦走する新潟県道561号弥彦岩室線(かつての有料道路・弥彦山スカイライン)と国道402号(寺泊シーサイドライン)を結ぶ市道(かつての寺泊町道弥彦裏参道線)に白看が残っているという情報を聞きつけ訪れた。
撮影した白看はうわさ通りの酷い状態。3段ある行き先表示は真ん中を残して朽ち果てており、表示限界は通り越し、文字を判別するのも難しい。ただそこには「寺泊/弥彦山/弥彦」と表示されているようである。しかし、「白看ブリグ」さん(2005年撮影)や「windy excursion」さん(2009年撮影)の情報では「西生寺/弥彦山/弥彦」ではなかっただろうか。5年程度でこんなに状態が変わるものなのかと、ずっともやもやしていたが、この記事を書いている時に分かってしまった。「西生寺」の白看の方を見落としていたのである。

 この白看があるのは前述のとおり、寺泊から弥彦山スカイラインを結ぶ市道と、そこから即身仏で有名な古刹、西生寺を結ぶ市道の交差点に存在する。この白看は交差点の北東側、つまり西生寺から寺泊方向を向いて立っている。その時何故気づかなかったか不思議なくらいだが、お判りの通り、「西生寺」の白看は交差点の南西側に立っているのである。その場所は車で通っているのに、雑木のせいか完全に見落としていた。というわけでこの交差点には2枚の白看があるのだ。ちなみに「西生寺」の方はストリートビューで確認できた。

 最新の画像は2012年11月のもののようだが、支柱は折れ、命運はほとんど尽きかけようとしている。なるべく早めに再取材といきたいが、九州から新潟はあまりにも遠い…

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なお、こちらは取材した方の白看の裏面である。大型板なので「二型」の補強鋼である。弥彦山スカイラインは1970(昭和45)年4月に開通している。国土地理院の空中写真を見ると、昭和40年代のはじめに寺泊野積〜西生寺の道が完成し、その後、弥彦山スカイラインの完成に合わせ延伸されたようである。となると設置は白看末期。どおりで支柱が新しめなわけである。数少ない新潟県の現存白看であるだけに、なんとか持ちこたえてほしいものである。
 

◯場所はこちら

101「北川村」/102「宮崎県」

20100606/20140812大分県佐伯市にて撮影

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◯白看の種類:101「北川村」/102「宮崎県」(複柱式)

 

◯設置されている道路:国道10号旧道

 

◯概要:国道10号は北九州市小倉北区から鹿児島市までを結ぶ、言わずと知れた東九州の大動脈である。福岡、大分、宮崎、鹿児島を通るこの路線の最大の難所とも言えるのが大分県佐伯市と宮崎県延岡市の県境・宗太郎峠である。国道10号線に並行する日豊本線はこの区間(市棚-重岡)が最後に完成(1923(大正12)年12月)、道路はようやく1959(昭和34)年4月に「佐伯国道宗太郎峠改良工事」として一次改築に着手、県境付近の区間は1963(昭和38)年に着工、事業費約20億円をもって1966(昭和41)年度末までには舗装工事まで完了した。この白看は宗太郎峠の旧道の県境に残るもので、写真のとおり周囲はすっかり廃道である。
なお、平成の大合併前は大分側が南海部郡宇目町(-2005(平成17)年3月)、宮崎側が東臼杵郡北川町(-2007(平成19)年3月)であった。101の表示は「北川村」である。町制施行は1972(昭和47)年11月でその時は既に白看時代は終焉を迎えている。

この区間の改築の困難さについては、九州地方建設局佐伯事務所「佐伯-40年のあゆみ-」(1992年)に以下のように記されている。

国道10号の改築を語る時、宗太郎地区を抜きにしては語れない。なぜならば、工事条件の悪い約10kmの区間をわずか2ヶ年で概成させたほどの突貫工事であったこと、細長い地域に10社以上が競合する異常なまでの出合丁場であったこと、または日本では考えられないほどの辺地での工事であったこと、(中略)宗太郎の附近は鐙川沿いの山腹を縫った山岳道路で、しかも鉄道と並行し、多くの平面交差があるとともに、屈曲が多い見通しのきかない砂利道で、自動車交通には想像を絶する悪路だった。(p.243)

現在の国道10号は宗太郎を過ぎると鐙川を右に左にと渡り、県境を超える直前に切込橋(L=55)で右岸に戻っている。一方改良前の国道は基本的に右岸を走っていた。地理院地図でも道路の表記は消滅しているが、この白看が立っているのは以下のとおりの日豊本線の線路の側である。当時はこの先に踏切があったはずなのだが既に失われている。1975(昭和50)年の航空写真(下図)を見るといくつか建物が旧道沿いに残っているようである。単なる造林小屋なのか峠の茶屋的なものがあったのか気になるところである(建物の基礎は現在でも残っていた)。

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上掲の写真は県境方向から宮崎側を撮影したものである。現在の国道は右側、白看が残る改良前の国道が左側で、少し高い場所を走っていたことがわかる。確かに車が一台通れるくらいの狭い道で、交通のネックであることが理解できる。なお、1枚目の写真を見て頂ければわかるが、白看がある附近は道幅が広くなっており、離合や休憩に使われていたようだ。

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裏面は「二型」の補強鋼で、支柱は宮崎県の白看に特徴的なコンクリート支柱。 前述の一次改築のタイミングなどから昭和30年代前半〜半ば頃の設置だろうか。なお、大分側には標識関係の遺構はなかった。

 

◯場所はこちら

103-B「粟津港/岡崎」

20150803徳島県鳴門市にて撮影

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◯白看が設置されている道路:鳴門市道林崎弁財天線(旧徳島県道12号鳴門池田線?)×鳴門市道(旧徳島県道66号粟津港撫養線)

 

◯概要:今年(2015年)の夏は徳島の白看の取材を行った。ざっくりとした表現をすると、徳島県に現存する白看の多くが県道12号鳴門池田線、いわゆる撫養街道沿いにあり、特にみよし市美馬市などの西部に集中している。私も撫養街道を西から東に出来るだけ旧道を通りつつ走り、ようやく辿り着いた鳴門で偶然にも発見したのがこの1枚。少なくとも私は事前情報無しの完全なる初見だった。

この白看、写真で感じる以上に矢鱈に背が高く、写真を撮るのはなかなか苦労した。よく見てみると、矢印の作り方が矢尻とその本体とが別々のパーツで作成されていることがわかる。また「0.8Km」の右上にある小さな長方形のシールは管理番号が書かれていたものと思われる。普通裏面に貼るのが普通なので珍しい。

この白看がある場所は鳴門線を越え、撫養川を文明橋で渡り、撫養城岡崎城)があった妙見山下のY字の交差点。現在は市道どうしの交差点であるが、里浦方面へ向かう道は昭和47年の1/5000国土基本図に「県道粟津港・撫養線」と記されている(1959(昭和34)年1月に66号として路線指定)。一方で岡崎方面へ向かう道の出自は不明である。撫養街道の延長線上であるので、鳴門池田線(1954(昭和29)年11月に路線指定)だったのか、もともと市道だったのかはウェブを頼った机上調査ではわからなかった。なお、現在の徳島県道184号粟津港撫養線の終点は国道28号の吉永交差点。ここは県道12号鳴門池田線も起点としているので、この2つの県道は時代を越えて場所を変え起終点を一つにしていたと言えるかもしれない。

さて、この白看は現在は北側、つまり岡崎側を向いている。撫養側、文明橋の方から来ると以下の写真のような様子になっている。

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上記の説明でお判りになったかたもいるかもしれないが、この白看現在向いている方向に対して表示している地名が変である。「粟津港」は本来「↖」の矢印で表現されるはずだし、「岡崎」は自らの方向へバックしなければならない。そもそもこの方向だったら、「池田」などと表示してもよさそうなものが何故(全国的には)マイナーな2つの地名の表示なのか。つまり、標識板の向きが違うのだ。本来ならば上記の写真を撮った方向に正対するように立っているのが正しいはずである。おそらくは台風などの風が吹いた時に向きが変わってしまったのだろう。

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 裏面の補強鋼は口型。県道指定の年などから判断しても昭和30年代半ば〜後半の設置ではないだろうか。

 

ストリートビュー

◯場所はこちら

白看前史(4)

白看前史、前回は1921(大正11)年11月に制定されたいわゆる「大正標識」を中心に紹介した。実はこの年に自動車の登録台数ははじめて1万台を超えた(12,091台)。その数は、1932(昭和7)年には10万台を突破(100,221台)し、日本は瞬く間に「自動車の時代」へ突入しようとしていた。

 しかし、今で言うところの案内標識が1種類と警戒標識が7種類しかない状況では増加する道路交通に対応しきれなくなり、昭和の初め頃から新たな道路標識の体系を模索する動きが活発となる。

昭和五年照明學會は交通整理委員會を設置し、道路標識の研究を遂げ、一試案を公表してゐる。國際道路會議が昭和七年獨逸に開かれた時、之の道路標識が議題となり、我國からは上記の照明 學會の道路標識が報告として提出せられた。(金子源一郎『道路:road engineering & management review』「道路標識(道路標識委員會報告)」p.26、1940年

昭和5年11月、照明学会の中に交通整理委員会が設置された。照明学会は「1916年(大正5年)11月29日に創立され、わが国における照明技術の発展や照明知識の普及に大きく貢献してきました。」(照明学会HP)とある。なぜ照明学会が道路標識と関係あるのかはっきりした言及を見つけることは出来なかったのだが、おそらく信号(広い意味での照明だ)や道路標識の視認性の研究において照明学会の中に入っていることが有効だということだったのだろうか*1

この交通整理委員会の委員長である佐藤利恭は内務省の人である。昭和12年の「地方鉄道軌道主任技術者会議録」には「内務省技術局第二土木課長」の肩書で、

私は大正七年に内務省に入りまして以来、今日までずつと道路軌道等の交通機關に關する事務を扱つて居つたのですが(地方鉄道軌道主任技術者会議録p.9、1937年)

と挨拶している。 また1923(大正12)年、スペイン・セビージャで開かれた万国道路会議にも出席している*2ようだ。

上記の金子氏の言う「一試案」は1933(昭和8)年の照明学会雑誌第17巻第7号に「報告 交通整理標準」として掲載されている*3。この論文では道路標識に限らず信号をはじめとする交通整理の方法、踏切、駐車場、歩道、横断歩道などの設置実施案が網羅されている。それでは、道路標識の項(この論文では「交通標識」と記されている)について見て行こう。

  • 交通整理標準(交通整理委員會報告)1933年

冒頭に「交通標識」の定義が記されてある。

交通標識は交通事故防止竝に道路の效用を增進する爲に設置するものにして形狀及色彩に依りて標識の意義を表示するを主眼としこれをに補助として簡單なる文字又は記號を併用す。 (佐藤利恭『照明学会雑誌』「交通整理標準(交通整理委員會報告)」p.34、1933年)

また、その設置方法、設置場所についても記載がある。このような実用的な側面について具体的に言及されたのは初めてではないだろうか。

標識は一般交通より見易き箇所を選び必要に應じ照明装置を附するか又は反射鏡を用ひて之を明示すべし,従つて之に類似し又は其の效果を妨ぐるが如きものの設置を禁止すべきものとす。(佐藤利恭『照明学会雑誌』「交通整理標準(交通整理委員會報告)」p.34、1933年)

この論文では11種類の標識が提案されている。内務省出身の佐藤が委員長となっているためか、基本的には1921年の内務省令第27号「道路警戒標及道路方向標二關スル件」で制定された標識群の補足・発展という形となっている。

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イラストは左から1.「踏切標識」2.「踏切近し標識」3.「交叉近し標識」4.「横斷歩道標識」である。踏切関係の標識が2つある。そのうちの「踏切標識」は今日の踏切警報機にそっくりでありが、カラーリングが白と黒の縞模様になっている。
その理由について「色彩に關しては從來一般踏切門扉が白黑交互の縞塗りとするを普通とするを以て本標識も亦之に倣ひ白黑の縞塗りとなせるものなり」とある。事実、こちらの記事に踏切門扉の写真があるが、白黒に塗り分けられているようである。
「踏切近し標識」については、大正標識についても制定されているのだが、それに依らなかった理由を但し書きで以下のように書いている。「(1)踏切標識の形式に合致せしむるを必要とし(2)國民の多年の慣行上本形式は直に踏切なる感念を腦裡に反映し易きこと(3)塗粧容易にして遠方より看易きこと」(4)鐵道軌道業者は現に本型式を採用しつゝあること等幾多の利點ある爲なり」としている。つまりデザイン的にも普及の面からもあまり上手く行っていなかったことが伺える。

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続いてのイラストは左から5.「安全地帯標識」6.「停止線標識」7.「通行止標識」(3種類例示されてあった)8.「制限附通行止標識」である。そのうち安全地帯と停止線を示す標識は、それぞれの設置提案と密接に関連している。この論文では安全地帯を「一般横断歩道用安全地帯」と「電車用安全地帯」分けられている。ちなみに歩道用は片側2〜3車線以上の横断歩道の中間への設置を想定していた。「停止線」は横断歩道の後方2mの位置に表示するものとしていた。

「通行止」については白看前史(1)で紹介したように1899年に警視庁が発布した「通行止の制文制札令」に定められていたが、改めて交通標識としての表示が検討されたようである。また、「制限附通行止標識」について、盤面に描かれる制限が3つ(「1. 營業用空車通行止 2.午前10時ヨリ午後10時マデ營業用空車通行止 3.荷車通行止」)例示されている。営業用空車通行止は、次の道路標識令(1942年)で採用され、1950年まで使用された。

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続いては9.「曲線標識及阪路標識其他」とまとめられているものである。基本的には「道路警戒標」で制定された標識に準じている。制定当時の官報に載せられた図との違いは「左曲り」などの表記が左横書きになっていることである。一般的に戦前は右横書きが多いような印象があるが、実際には技術書などを中心に英語などの影響による左横書きもそれなりに存在していたようで、技術者中心に検討を行った現れと言えるのかもしれない。最も右のイラストは「其他標識」とまとめられているもので、文字のみで表記されるものである。以下7つのパターンが例示されている。「1.速度制限(「時速15km以下」の如し」)  2.駐車禁止 3.駐車場 4.左側通行 5.空車轉廻禁止 6.右大廻,左小廻 7.停車禁止」である。

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最後は10.「一方交通出入口指導標識」と11.「道路方向標識」である。前者については道路上への懸垂や壁面への取り付けも想定されていた。道路方向標識は図板に地名の記載がなかったが、基本的には「道路方向標」に準じるデザインであることがわかる。

 

さて、冒頭で引用した金子氏の論文にはドイツでの国際道路会議でこれらの道路標識の案を提出したとある。1934(昭和9)年9月3日から6日かけてドイツ・ミュンヘンで第7回国際道路会議が開かれたのだが、この会議のレポートはある議題に対してそれぞれの国の対応や事情を記すことになっており、このレポートは「Means adopted to promote the safety of traffic in: a) Towns; b) The open country; c) At level crossings. Legislation; regulation; Road signs.」という命題の解答である。執筆者は前述の佐藤の他に「Gunji TAKEI」とある。この人は後に山口県知事や厚生次官も務めた武井群嗣。当時の肩書は内務省道路局長であった。ちなみにサッカー日本代表としても2試合に出場している。

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「交通整理標準」との違いは、9.「曲線標識及阪路標識其他」の其他標識の例示が「時速拾五粁以下」になっていることと、11「道路方向標識」について文字が入っているところである。

しかし、実際に道路交通を司るのは各警察や自治体であり、内務省の検討云々を待っている余裕はなかったのだろうか。この頃、以下の様な動きが出てくる。

警視廳は昭和九年交通標識を制定し、大阪府も亦同年*4道路標識を制定してゐる。各府縣又之に倣ひ色々の標識を用ひるに至つた。(金子源一郎『道路:road engineering & management review』「道路標識(道路標識委員會報告)」p.26、1940年

ということで次回は警視庁や大阪府が制定した道路標識を見ていくことにする。
(続く)

 

*1:実際に1987年には小糸製作所の稲垣襄二さんが「道路標識」という論文を書いている。

*2:中外商業新報 「万国道路会議 出席者決定す」1922年12月20日

*3:J-STAGEでこの論文を読むことが出来る

*4:おそらくこれは誤りで大阪府独自の交通標識が制定されたのは昭和7年7月である。

105「町田駅」

20120808大分県九重町にて撮影

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◯白看の種類:105「町田駅」(単柱式)

 

◯設置されている道路:国道387号線(旧大分県道小国玖珠線)

 

◯概要:前回の記事では廃線後40年が経過した今もなお残っていた警戒標識207「踏切あり」を紹介した。ふつう廃線となればそれに関連する道路標識は必要なくなるわけで、それが存在し続けているというのは非常に興奮を誘うのである。

ここは大分県九重町。町の西側を町田川に沿って南北に走る国道387号線に目当ての白看は存在する。玖珠観光バスの町田バス停の側に立っているのが、今回紹介したい105「町田駅」である。町田駅は旧国鉄宮原線の駅で、第一次特定地方交通線として1984(昭和59)年12月に廃止・バス転換されている。なので廃止後30年以上、「存在しない駅を案内し続けている道路標識」なのである。

写真をご覧頂くとわかるように標識板自体の状態は、残念ながらあまり芳しくなく、盤面には錆による穴が見られ、文字に使われた青色塗料はすべて剥げ落ちて鉄板の地肌が表面に出てきているという状態である。当然といえば当然だがメンテナンス等はされていないために、支柱とを繋ぎ止めているビスも錆び付いている。裏面はオーソドックスな「二型」。設置されたのは昭和30年代半ば〜後半といったところだろうか。

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なお、国道387号線の国道指定は1975(昭和50)年4月なので、この標識が設置されたのはそれ以前の県道小国玖珠線の頃である。

せっかくなので、町田駅の跡に行ってみることにした。宮原線は国道沿いを走っていたのだが、山の裾を通っていたので集落よりも高い位置にある。長い階段を登るとかなりよくホームの跡が残っていた。駅名票もあり、白看が残っているということも含め、この集落の人々の駅を大切に思っている表れではないかと勝手に考えている。

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地図を見て頂くとわかるが、宮原線の線路跡は国道387号線のバイパスとして新たな道を歩んでいる。私が訪れた時はまだ工事中だったが、2013年11月6日に町田バイパスとして開通した(一般国道387号(町田バイパス)開通のお知らせ)。バイパス開通後もホームの跡はしっかり残っているようだ。白看もまだ撤去されていない。貴重な交通遺産としていつまでも気にかけていてもらいたいものである。

◯場所はこちら

207「踏切あり」

20150424大分県中津市にて撮影

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◯標識の種類:207「踏切あり」(単柱式)

 

◯設置されている道路:中津市道(国道212号線旧道)

 

◯概要:今回紹介するのは大分県中津市にある警戒標識の207「踏切あり」である。一見して古いものだということはわかるが、その設置されている場所がミソである。

地図の中心、「+」で示しているのが標識の所在地。野路集落を通過している道路が標識が設置されている国道212号線の旧道である。一方、上掲地図の北東から南西に走る「幅員3.0m未満の道路」は大分県道411号中津山国自転車道線。「メイプル耶馬サイクリングロード」という愛称が付けられているこの自転車道は、廃線となった鉄道線路用地を転用して整備されたものである。耶馬溪鉄道(のちの大分交通耶馬渓線)で、沿線の過疎化と道路整備、さらに起点の中津駅の高架化の影響で、1971(昭和46)年に野路ー守実温泉間が、1975(昭和50)年10月1日には中津ー野路間が廃止となり全線が廃線となった。


野路駅は旧国道との交点のすぐ西側、カーブの途中にあった。つまり1975年10月の廃線まではこの標識があった場所の先に踏切があり、現役で使用されていたはずだ。なお、国道が集落を通過しないバイパスに切り替えられたのは、「地図・空中写真閲覧サービス」によると1962(昭和37)年から1965(昭和40)年の間ではないかと考えられる。鉄道廃止時には、既に当時の三光村村道に降格していたためにこの標識は撤去を免れたのではないかと考えられる。なお、標識の設置されたのは少なくとも1965(昭和40年)以前であることは間違いない。

 

ストリートビュー(踏切だった場所。右へカメラを動かすと野路駅の跡が見える。)

◯場所はこちら

104「中津江/矢部」

20150414福岡県八女市にて撮影

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◯白看の種類:104「中津江36Km/矢部16Km」(単柱式)

 

◯設置されている道路:国道442号線(旧福岡県道23号八女小国線)

 

◯概要:いつも未知の白看に出会うときは、興奮を隠し切れない。たいていは自家用車で探索しているが、そのたびに「おぉ…これはっ!」などと叫んでいる。他人には見られたくない様態である。さてここは福岡県八女市、合併前の黒木町を走る国道442号線である。夕暮れ時、突如視界に飛び込んできた錆だらけの標識、勿論白看であり、車内のテンションははちきれんばかりになった。国道442号線は福岡県八女市から熊本県小国町を結ぶ延長58.5Kmという短い国道だが、矢部川上流の日向神ダムや福岡県と大分県の県境である竹原峠など、なかなか楽しい道である。白看愛好家からすれば八女市内の国道3号線旧道との交差点(土橋交差点)には、以下の3枚もの白看が残っていたことから私の中でも“要監視道路”となっていた。

それでは標識をじっくり味わってみよう。一見してわかるのは“古い”ということである。錆による盤面の経年変化は勿論のこと、昭和30年代後半から見られる丸みを帯びた標準字体ではなく、どこかカクカクした感じの独特の字体である。また「中津江」のローマ字が「NAKATUE」と訓令式になっていることも注目だ。(上記2番目のリンクの103-Aの「筑後」も「TIKUGO」だった)また中津江の「江」は「𣲅」と異体字になっている。

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そして裏面は補強鋼なしの鉄板一枚物。私が見た中ではR55の星越峠、R219の横谷峠などに通ずる古さである。また、矢部方面の先にある105「日向神」も同様の字体で裏面の特徴も同様なので、同じ頃に設置されたものであると思われる。時期としては最も古い可能性としては日向神ダムの完成により道路の付け替えが発生した1957(昭和32)年頃ではないかと考えられる。
なお、設置者は福岡県である。支柱を目を凝らして見ると「福」の字が残っているのが分かる。さらに付け根の部分にもペンキで何らかの文字が書いてあるように見えるが、判読は出来なかった。

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ともかく本当にこのような白看が残っていること自体が驚きで、このように発表できることを幸運に思う。ちなみにストリートビューにもばっちり写っている。こちらも画像検索なんかが出来るようになると面白いのに。

◯場所はこちら

103-B「松戸/柏」

20120218千葉県松戸市にて撮影

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◯白看の種類:103-B「松戸↑4Km/柏→10Km」(複柱式)

 

◯設置されている道路:千葉県道51号市川柏線×松戸市道 主1-16号線

 

◯概要:業界では有名な「ラブホテル白看」。ここは千葉県松戸市新京成電鉄八柱駅北口近く。千葉県道51号市川柏線に設置されている。この県道は3枚目の写真にちらっと写っている「八柱駅北口交差点」でV字に折れ柏方向へ進む。一方、直進方向は松戸市街地へ向かうがこちらは市道。地理院地図などで見ると古くからある道のようなので、県道指定されていてもおかしくなさそうであるが、来歴はつかめなかった。
標識の左側4分の1は立ち木に隠れて、進行方向からの視認性はあまりよくない。「ラブホテル白看」と呼ばれる所以は、その立ち木があるオレンジ色の建物。ホテル「クライム・ジョイ」だ。年末になると白看の目の前にイルミネーションが設置されていたようであり、何かと周囲の条件に恵まれなかった白看である。標識自体は当然ながらホテルが建てられる前に設置されたはずだ(以下の国土地理院の空中写真から1985年前後のようである)。

裏面を示す写真がないのだが、2009年のストリートビューから判断するに薄い補強鋼が二本平行して付けられている「二型」であると思われる。

この白看、既に撤去されている(私も2013年1月に現地で確認した)。以下の2014年4月に撮影されたストリートビューをご覧頂きたい。拡大すると支柱の痕がコンクリートで埋め戻されている。設置当時、千葉県の管理票が支柱には貼られていたため、おそらく正式な手続きのもと廃止になったと考えて良さそうだ。新八柱駅側の103-Aを含め、八柱周辺の白看はすべてなくなってしまった。

 

◯場所はこちら

 

104変「大分/延岡」

20100606/20140812大分県佐伯市にて撮影

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◯白看の種類:104変「大分56Km/延岡66Km」(添架式・歩道橋添架)

 

◯設置されている道路:国道217号線

 

◯概要:大分県佐伯市の中心街「大手前歩道橋」に存在する104式の白看。しかし、英語表記のない亜種である。様式は英語表記がないだけで、他は白看のそれと一緒なので白看とカテゴライズしご紹介したいと思う。英語表記がないのは行き先表示の視認性を高めるためだと思われる。それでは、いつ頃に設置されたのか、歩道橋添架式のセオリーである橋歴板のチェックを行ってみよう。この歩道橋の場合、佐伯駅方面(北向き)の左側にある。

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これによると1968(昭和43)年2月の建造であることがわかる。白看末期の設置ということもあり、アルミ板であり、背面の補強鋼も高リブである(この取り付けのためにビスがが表側の盤面に出てきているのは珍しいと思う)。

なお、橋歴板は横300mm/縦200mmと寸法が決められている。表示されている「歩道橋 指針 1967」とは昭和42年の道企発第17号の立体横断施設設置要領(案)に依って設置されたということであり、「材質SS41」とは一般構造用圧延鋼材の中に規定のある材料記号である。この歩道橋の製作は「大和ハウス工業」である。住宅メーカーが歩道橋製作かと驚いていたのだが、Wikipedia「横断歩道橋」の項によると…

大和ハウス工業が建設酒て大阪市に寄贈した大阪駅前の歩道橋は日本初と見なされたことから、同歩道橋が完成した1963年(昭和38年)4月25日に因んで4月25日が「歩道橋の日」とされている

大和ハウス工業のHPにはその写真も掲載されている。また、歩道橋という概念を発明したのも大和ハウス創業者の石橋信夫氏という記述もあるが、果たしてどうなのだろう。そう考えると、この大手前歩道橋も由緒ある歩道橋の一つと言えなくもないかもしれない。

 

ストリートビュー 

◯場所はこちら

 

103-B「松本/薮原」

20111010長野県松本市にて撮影

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◯白看の種類:103-B「松本↑29Km/薮原→31Km」(複柱式)

 

◯設置されている道路:国道158号線×長野県道26号奈川木祖線

 

◯概要:国道158号線は松本電鉄新島々駅を過ぎたあたりから梓川に沿って走る。上流に行くに従い稲核ダム、水殿ダム、奈川渡ダムという東京電力が昭和30年代に計画した電源開発用のダム(安曇三ダム)が現れる。その中で最も上流にあるのが奈川渡ダム。堤高155mは国内のアーチダムの中でも3番目の大きさだそうな。

さて、その奈川渡ダムの側に今回の白看が取り付けられている入山隧道がある。このトンネル、洞内分岐があることでその筋には知られた存在である。これについてはヨッキれんさんの山さ行がねがに詳しいのでそちらを参照されたい。トンネルの安房峠(奈川渡ダム)側にはT字の交差点があり、そこが国道158号線と長野県道26号奈川木祖線との分岐になっている。ちなみに白看に表示されている「薮原」は木祖村の中心集落。ここで国道19号線(中仙道)と合流する。白看は上記の分岐を知らせるためのものなので、実際にはかなり遠くからの視認が必要である。ストリートビューでご覧頂きたい。

 入山隧道の竣工は1968(昭和43)年である。奈川渡ダムの完成が翌年の1969年であるので、白看の設置もその頃だと考えられる。1枚目の写真を見るとわかるが、この白看はトンネルの坑門の上に短い複柱式の支柱を立てて取り付けられている。左側のそれには「長野県」の設置者表示がある。近くで観察すれば、設置年がわかったかも(「長野県」ラベルに同時に書いてあることが多い)しれないが、流石に近づくことは出来なかった。盤面は後期白看特有のアルミ板で裏面は高リブの補強鋼だろう。

しかし、この白看も二度と見ることが出来ない。上掲の「そういえば」から始まる2014年7月にポストされた2つのツイートによると撤去されてしまったようだ。反射塗料の“はげ”は見られるものの、状態は悪くなかっただけに残念。。

 

◯場所はこちら