103-C「松山」

20130717愛媛県砥部町にて撮影

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◯白看の種類:103-C「↑松山14Km」(単柱式)

 

◯設置されている道路:砥部町道大南大岩線(愛媛県道10号松山砥部内子線→国道379号線旧道)

 

◯概要:愛媛県は県庁所在地の松山を中心に比較的よく白看が残っている。その松山市から焼き物で有名な砥部町を経由し、白壁の街並みが残る内子町へと至る国道379号線の旧道に残っていたのがこちらの白看。支柱が角柱で、「愛」「媛」「県」と3枚のシールが貼られているのが、愛媛県の単柱式の白看の特徴だ*1。なお、盤面は拡大していない標準サイズである。また、余談だが白看に使われている書体では松山の「松」のつくりは必ず「ハム」となっている。

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裏面の補強鋼は「二型」。支柱を抱き込むように取り付けられた金具を留めているビスはきらりと光っていて状態は良さそうだ。右側には管理シールだろうか、何か貼られているような痕があるが、今となってはよくわからない。

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この白看が設置されてある旧道から、現在、国道に指定されている新道へとルートが切り替えられたのは昭和50年代初頭のようである。一方、国道への昇格が1975(昭和50)年4月なので、このタイミングで切り替えが行われたのかもしれない。さらに国道379号線を南下した旧広田村との境界にある上尾峠にも数多くの白看が残っているので、またレポートを行いたいと思う。まさに愛媛を代表する“白看街道”である。

 

◯場所はこちら

103-C変「国道1号(第2京浜)」

20110410神奈川県横浜市にて撮影

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◯白看の種類:103-C「←国道1号(第2京浜)0.8Km」(高架橋添架)

 

◯設置されている道路:横浜市道×首都高速神奈川1号横羽線子安出口

 

◯概要:震災の後、仕事がちょっと一段落して、アクアラインを渡って千葉方面にドライブに行こうかと車を走らせていた時に偶然に見つけた白看。場所は横浜市神奈川区の子安。子安といえば、新子安駅前の103-Bや、今は撤去されてしまった103の2があって、ちょっとした白看集中地帯である。表示されている国道1号へは、新子安の103-Bの記事で出てきた新子安橋を経由する。
この白看が取り付けられている高架は首都高速神奈川1号横羽線。開通したのが1968(昭和43)年7月ということなので、この白看が取り付けられたのもおどらくそのタイミングではないだろうか。盤面に関して言えば、日差しも雨も防げる場所なので非常にコンディションは良さそう。また、「号」「第」「京」「浜」などの文字のフォントが非常に独特である(公団ゴシックなのか?)。
なお、この白看には英語表記がない。基本的に英語表記がないものは白看でも亜種扱いとしているが、よく見ると距離表示の欄の「キロメートル」が「km」と小文字である。白看ではここは「Km」と大文字にして書くので、やはり亜種とカテゴライズして問題なさそうだ。

 

◯場所はこちら

103-C「生出」

20141102岩手県陸前高田市にて撮影

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◯白看の種類:103-C「←生出7Km」(複柱式)

 

◯白看が設置されている道路:陸前高田市道(国道343号線旧道)×陸前高田市道(岩手県道246号世田米矢作線旧道)

 

◯概要:旧道なんかを走っていて、不意に未知の白看に出会うと得も言われぬ興奮が全身を襲う。この日は、前日に仙台行われた友人の結婚式のついでに、飛行機までの時間を最大限に使い岩手県南部の“白看詣で”を行っていた。一関駅で借りたレンタカーは北上駅で返却予定。しかし奥州市水沢の白看群の撮影も控えている中、19時過ぎの飛行機に乗るためには北上到着の時間が怪しくなっている。しかしながらいつもの性で国道343号線を離脱、陸前高田市矢作町の旧道に突っ込んでいった。中平川沿いの片側一車線の道をしばらく行くと見覚えのある赤茶けた鉄板に二条の補強鋼。間違いない!

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高鳴る鼓動を抑えなどというと大げさかもしれないが、前を回るとビンゴ。かつての幹線に設置されていた大きめのサイズの103-Cである。その証拠に複柱式である。錆はひどいが取り付けはしっかりしていて、未だ案内の役目は果たしているようである。表示されているのは「生出」と書いて「おいで」。前述の中平川の支流、生出川沿ってある木戸口、夏通、清水、二田野、三ノ戸、清水川、的場の集落をまとめて生出地区というようだ*1。この白看で示されているのはかつて小学校もあった二田野集落までの距離だろうか。

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支柱には設置者を表す「岩手県」のシールも健在だ。なお、この区間が旧道化したのは割合に遅く、国道343号線の方は昭和50年代後半、県道246号線の方は平成8、9年頃のようである。背後にある208「学校、幼稚園、保育所等あり」とともに末永く残ってほしい白看である。

 

◯場所はこちら(Googleのマイマップの仕様変更でストリートビューが表示できなくなっています。また機能が戻ったら載せますのでご容赦を。)

白看前史(3)

  • 道路警戒標及道路方向標二關スル件(内務省令第二十七號) 1921年11月

1921(大正11)年11月9日は日本の道路標識史上記念すべき日となった。この日、初めて全国的に統一された道路標識についての通達が内務省から出されたのだ。「道路警戒標及道路方向標二關スル件」という名称で、同日に発行された「官報 第3083号」に掲載された。以下のように国立国会図書館のデジタルコレクションで見ることが出来る*1

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以下に全文を転載する。

内務省令第二十七號道路警戒標及道路方向標二關スル件左ノ通底ム
 大正十一年十一月九日 内務大臣 水野錬太郎

第一條 道路ノ屈曲部、坂路其ノ他交通上危險ノ處アル箇所二對シ必要アル場合二於テハ道路警戒標ヲ建設スヘシ 
第二條 十字路、丁字路其ノ他ノ箇所ニ對シ交通上必要アル場合ニ於テハ道路方向標ヲ建設スヘシ
第三條 道路警戒標及道路方向標ヲ建設スル場合ニ於テハ別記様式ニ依ルヘシ
第四條 道路警戒標ハ第一条ニ規定スル箇所ノ前後八十メートル乃至百四十メートルノ地點ニ於テ道路ノ方向ニ面シ左側路端ニ之ヲ建設スヘシ但シ市街地ニ在リテハ相當其ノ距離ヲ短縮スルコトヲ得
第五條 道路方向標ハ道路ニ面シ路端ニ之ヲ建設スヘシ
附則  本令ハ公布ノ日ヨリ之ヲ施行ス


 「道路警戒標」は現在の警戒標識である。意味としては交差あり、右カーブあり、左カーブあり、上り坂あり、下り坂あり、踏切あり、学校ありの7種。三角板が支柱の最上部に設置され、その下に警戒標が取り付けられていたようである。また本文中の備考にあるが、三角板は赤色、警戒板は黒色で、文字やマークは白色で描かれることになっていた。なお、禁止標識に類するものは制定されなかったので、1899(明治32)年の「制文制札令」における通行止榜標が引き続き使用されたようだ。

 

一方の「道路方向標」は現在の案内標識にあたり、板面は白色、文字や矢印は黒色で表示されていた。これまであまり指摘されていないと思うのだが、構造が特徴的で、理解するのに少し時間を要するのだが、十字路の場合は標識板を十字に組み合わせ三叉路の場合はT字に組み合わせて使用していたようだ。つまり進行方向から見れば、官報の図のように見えるのだが、真ん中に左右の交通用の標識板が50センチほど出ているので、視認性はどうだったのかなという感じがする。またこのような形態だということは十字路の場合は交差点の真ん中に設置されるのが前提だったのだろうか。

 

さて、愛好家に「大正標識」として知られる「道路警戒標」。制定から88年を経た2009(平成21)年にネット上でその残存が発表され、大きな話題となる。2009年1月19日 2:05に「マフ巻隧道BBS」に書き込まれた「メタルほら吹き」さんの投稿である。

はじめまして。いつも楽しみに見せて頂いております。有難うございます。 10年来気になる高松市塩江町、旧塩江街道の超旧標識です。 http://map.yahoo.co.jp/pl?type=scroll&lat=34.17631805&lon=134.07640216&sc=5&mode=map&pointer=on&home=on&hlat=34.339475&hlon=134.04935389 白看どころか・・・!(もう有名でしたらすみません)今後とも宜しくお願いします。

多くの人たちがこの書き込みをきっかけに塩江詣でに向かったのは言うまでもない。全国的にもかなり有名になった。ご多分に漏れず私も2013年1月5日訪問してきた。というわけでここからは文化財級?の価値ある大正標識のリポートをお届けする。まずは全景をご覧頂く。繰り返すが、博物館などに飾られているわけではない、現役であるということを強調したい。

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まず、各パーツのアップをご覧いただこう。三角板部分はご覧のとおり。真ん中の白い部分に5点ビス止めされている。裏面はぴったり電柱にくっついていたので良くわからないのだが、中央の3つは支柱に、左右の2つは補強板を留めているのだろうか。

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警戒標部分はこちらであるが、官報に出ていた見本とは違う。「上り坂/下り坂」の表示に似ているが矢印ではなく、「屈曲多し」とある。大正標識には各県オリジナルの様式で作られたものも多く、これもその一つなのであろうか。支柱には3点のビスで留められている。このように標識板の上から留めるのは、ごく初期の白看にも見られる特徴だ。

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設置から少なくとも70年近く経過している標識なので、もちろん相当の傷みはあるのだがよく現場が保たれているのではないか。下の写真は警戒標の裏面だが、文字が書いてある表面の板面と、その後ろに補強板とも言えるべきもう1枚の鉄板が合わさっているのがわかる。「屈曲多シ」と「百米先」の文字の部分にそれぞれ2つずつビス留めがある。裏面は写真が撮れなかったが、三角板も同様の構造になっているものと思われる。

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現在は国道193号線に指定されてある塩江街道は「高松の奥座敷」と言われる塩江温泉への道として古くから開かれていたようである。この道は標識が設置されている先で香東川を岩部橋で渡る。「屈曲多し」の意図するところはこの橋に至るカーブ(少し下の写真でも見えている)のことであろう。なお、塩江温泉へは並行して琴平電鉄塩江線が高松市内から走っていた。この路線は1941(昭和16)年5月に不急不要線とみなされ全線廃止、線路などは鉄材供出に充てられたことを考えると、この標識が残ったのも奇跡的なことかもしれない。なお、標識自体はもとあった場所から数十センチ移動している。いしぐろ(@o_ishiguro)さんの現地調査によると電柱工事の際に移動させられて紐と針金で新しい電柱に縛り付けられたのだとのこと。本当に、今まで残っていてくれてありがとう、という気持ちになる。

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◯場所はこちら


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さて、この「道路警戒標及道路方向標二關スル件」で制定された8種の道路標識は昭和17年に「道路標識令」として大改定されるまで、およそ20年間にわたり使用されるわけだが、予算不足もあり整備普及は進まなかったようである。以下の2つの論文がその状況を表している。

 さて現行の警戒標、方向標が現在何の程度普及して居るかと言ふに、遺憾ながら其の普及成績は甚だ芳しくない。また、その設置ある府縣の中でも、其の形式や記載方式などは、是亦思ひ思ひであって(谷口松雄『道路の改良』「道路標識の改正に就いて」19巻11号 p.48-51、1937年)

其の種類は至つて少なく、僅に七種の警戒標識と一種の道路方向標を定めているに過ぎない。自動車が未だ發達しなかつた時代に於いては勿論之で宜かつたのであるが、今日の様に自動車交通が頻繁になつては、之の程度の標識で圓滑に自動車交通を整理して行くことは不十分なので(金子源一郎『道路:road engineering & management review』「道路標識(道路標識委員會報告)」p.26、1940年

 というわけで、徐々に増えて行く自動車交通を捌ききれなくなったようで、官民合わせて道路標識の研究が始まり、一部は実用に移される。その成果が私たちの大好きな「白看」につながっていく。というわけで次回は「道路標識百花繚乱時代」とも言える昭和初期の状況をご紹介したいと思う。

*1:官報のイラストは白黒だが、サイト「道路交通関係条約集」さんのようにきれいにイラスト化されている方もいらっしゃる。色がつくだけでも当時の雰囲気はビンビンに伝わるのでぜひご覧頂きたいと思う

103-B「佐敷/大野」

20100208熊本県芦北町にて撮影

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◯白看の種類:103-B「佐敷↑12Km/大野←4Km」(複柱式)

 

◯設置されている道路:芦北町道天月線(熊本県道27号芦北球磨線旧道)×芦北町道天月祝坂線

 

◯概要:これは珍しい「デザイン間違い白看」。間違いがどこかおわかりだろうか。…それは距離表示と地名表示の位置が逆である。1段目直進、2段目左折の白看は最近ご紹介した例ではこのような形が普通である。地名の英語表記などにはエラーが頻発する白看であるが、デザイン自体の間違いはそうそうないかと思われる。(また地名のアルファベット表記が文字に対応するように分かち書きされているのも珍しい)

 

さてこの白看があるのは熊本県の球磨地方、太平洋側の芦北町佐敷と球磨川沿いの球磨村神瀬を結ぶ熊本県道27号芦北球磨線の中間地点、旧道沿いの交差点にある。この白看、支柱に設置の日付が書いてある。1954(昭和29)年に佐敷大野線として路線認定されたこの県道、当初の終点はこの交差点付近、芦北町の天月だった。その後1971(昭和46)年6月に球磨村まで路線延長され、現在の名称となった。ちなみに現在の本道であるバイパスが出来たのは、1979(昭和54)年3月頃だったようだ(バイパスの才木橋の橋名板より)。

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この白看の支柱には設置の日付が書いてある。「昭和45年八月」は路線延長される直前。標識面が球磨村側を向いていることからも、このタイミングに合わせて設置されたと考えるのが妥当だろう。ただし、1963(昭和38)年10月の空中写真を見ると球磨川まで車道が伸びているようである。かなり早いうちに車道はあったが、県道認定が遅れたということだろうか。


ストリートビューで見ると裏面は「二型」のようだ。白看後期(白看が設置されたのは1971年11月の改正まで)に設置されたにしてはかなりのオールドスタイルである。

 

地理院地図

 ◯場所はこちら


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101「出水市」

20100208鹿児島県出水市にて撮影

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◯白看の種類:101「出水市」(単柱式)

 

◯設置されている道路:鹿児島県道374号出水高尾野線

 

◯概要:この市町村を表す101「出水市」は平成の大合併以前の旧高尾野町との境界に立っている。2006(平成18)年3月に旧出水市出水郡高尾野町、野田町と合併して新設の出水市となっている。高尾野側には標識はなかったが、最近まで同様の101があったのかもしれない。設置されている鹿児島県道374号出水高尾野線は1993(平成5)年3月に路線指定されている。それまでは1958(昭和33)年11月に指定された鹿児島県道112号餅井出水線だった。 

設置されている場所が面白く、101なのに交差点の中だ。しかも進行方向からは少し路地に入った場所にあり、本道を走る運転手に対しての視認性はそんなによくないように思える。実際の境界線はこの交差点より手前(高尾野側)にあったようだ。路側には立てられなかったのだろうか。

標識板はすっかり錆びきっており、真ん中の支柱に取り付けられた部分に由来する傷みが見られる。初回の取材が2010年ということでしつこく写真を撮っておらず裏面などの状態がわからないのが残念だ。ただ、ストリートビューでも確認できるように2013年3月現在、健在のようだ。また調査に行かないといけない。

 

ストリートビュー

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103の2「熱海市内/相之原/梅園」

20140801静岡県熱海市にて撮影

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◯白看の種類:103の2「熱海市内/相之原/梅園」(複柱式)

 

◯設置されている道路:静岡県道20号熱海箱根峠線×熱海市

 

◯概要:新ブログになってから初めての登場、103の2。1962(昭和37)年1月30日の総理府建設省令第1号による改正で登場した「方面及び方向」を表示する標識である。特徴は103-A/103-B/103-Cでは表現できなかった複雑な交差点の形を表現できる点である。また初めて案内標識で盤面が青のベースになった。ただし暗めの青なので、愛好家は「紺看」などと呼ぶ。設置されるのは「交差点の手前150m以内の地点における左側の路端または交差点における進行方向の正面の路端」であり、この標識については後者に当てはまる。以下は複雑な形式の交差点を表現した例である。

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この紺看があるのは熱海峠から笹尻交差点を経て来宮駅へ一気に下ってくる坂の途中の交差点。実はこの交差点にはもう一つ103の2があった。ちょうど坂を逆側から上ってきたところの正面に「相之原/梅園/箱根峠/十石峠」を表示するものがあった。現在は新しい青看になっている。交換はごく最近のようで、2012年6月撮影のストリートビューで見ることが出来る。

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そしてこの標識で特筆すべきは「梅園」の字に付随して梅のイラストが書かれていること。白看などでは国道のおにぎりがイラストとして表示されていることがあるが(猪苗代の103-Bなど)、このようなはっきりと絵になっているのは珍しい。しかし全くのレアケースかというわけではない。

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上掲の103の2はおなじみ「道路標識ハンドブック」(全国道路標識業協会,1968)に出ていた住友軽金属の広告である。かなり大きく甲子園球場がイラスト化されている。キャプションを見ると「第2阪神国道に設置されているアルミ標識板」とある。サンプルなどではなく実際に設置されていたもののようだ。本物を見てみたかった…(地名表示に小文字が混じらないのが興味深い)

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裏面は高リブの横3本の補強鋼、アルミで出来ているようでまだまだしっかりしている。支柱には少し錆が見られるが問題ないレベルだろう。今後も末永く残ってほしい1枚だ。

 

ストリートビュー

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103-B「壬生/吉田」

20140918広島県安芸高田市にて撮影

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◯白看の種類:103-B「壬生↑15Km/吉田←21Km」(単柱式)

 

◯白看が設置されている道路:安芸高田市道(広島県道6号吉田邑南線旧道←吉田瑞穂線)×安芸高田市道(国道433号/国道434号線旧道←広島県道324号生田惣森線)

 

◯概要:ネット上のローラー調査にて発見した1枚である。場所は広島県安芸高田市美土里町生田、2004(平成16)年3月の“平成の大合併”以前は高田郡美土里町だった。直進方向は現在の国道433号線/国道434号線の重複区間を経て北広島町(旧千代田町)の壬生へ、左折方向は広島県道吉田邑南線(終点の島根県邑智郡瑞穂町が2004(平成16)年10月に邑南町となる以前は広島県道吉田瑞穂線)を経由して安芸高田市吉田町(旧吉田町)に至る。

設置されている集落は“生田”と書いて“いけだ”と読む。広島県道6号吉田邑南線は、古くは石見路出羽越という道で、この生田集落は広島県側の最後の集落にあたる。往時からの風情が十分に残っており、商店も立ち並んでいる。もっとも現在はほとんどが閉店しているようで、平日に行ったこの日は床屋さんのみが開店していた。下の写真にちらっと写っているが、屋根瓦は赤色の石州瓦で島根県側との結びつきを感じさせる。

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盤面の特徴としては、上段の「壬生」が何故か一文字ずつ張り替えられていることと、下段の「吉田」の表示(「吉」が「つちよし」になっていることに注意)に補強鋼由来の錆が出始めているが、状態は概ね良好である。支柱に対して盤面が下にずれているような気がするが、裏面を見るとハンガーの残骸のような針金でぐるぐると巻かれていた。動かすとグラグラしなかったので固定はしっかりされているようである。

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なお、この交差点の南東側、すなわち吉田側にも白看があった。103-B「壬生/瑞穂」でる。こちらのページを見ると上掲写真の左のお寺の手前にあったようだ(2009年頃には存在している)。さて最後に関係道路の簡単な来歴を紹介する。白看が設置されている本道は前述のとおり、広島県道6号吉田瑞穂線という名称だった。1965(昭和40)年3月31日の路線認定以前は広島県道生田金屋千代田線、島根県道・広島県道布施千代田線だった。一方の現国道433号は1982(昭和57)年の国道昇格以前は広島県道324号生田惣森線だった。現在は双方の道にバイパスが出来ている。交点には県道時代のキロポストが残っている。吉田瑞穂線、起点の旧吉田町吉田から20Km地点を表している。

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ストリートビュー

地理院地図(中央下部でバイパス建設中である)

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105「佐久間ダム」

20120527静岡県浜松市にて撮影

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◯白看の種類:105「佐久間ダム」(単柱式)

 

◯白看が設置されている道路:国道473号線(←静岡県道水窪佐久間線)

 

◯概要:ここは静岡県浜松市天竜区佐久間町。国道の現道に残る小さな白看である。
示されているのは佐久間ダム。天竜川中流部に建設された重力式コンクリートダムである。Wikipediaによると「日本第9位の高さと第8位の総貯水容量を有する日本屈指の巨大ダムであり、戦後日本の土木技術史の原点となった日本のダムの歴史に刻まれる事業である。」とある。戦後の電力不足を解消するために1953(昭和28)年着工、1956(昭和31)年に竣工と3年で完成させた。というように日本土木史のエポックメイキングであったこの佐久間ダムを案内するには、あまりにも小さい盤面。支柱も近くのNPO法人「わかすぎ工房」の表示の方が目立つ格好でかなり不遇である。

設置されているのは国道473号線の現道で、1993(平成5)年4月の国道指定以前は静岡県道水窪佐久間線という路線名だったようだ。なおこの先に佐久間隧道の竣工年度は1954(昭和29)年、それ以前は現在の佐久間発電所のある敷地内を旧道が走っていたようなので、最も古ければ改良の際に白看も設置されたのかもしれない。

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裏面を見ると補強鋼なしの鉄板の一枚もの。取り付け金具もなく直接盤面にネジ止めされているようである。盤面の大きさは違えど、丸型の支柱など、先に紹介した105「緑川ダム」との共通点が見られる。なお、「SAKUMA-DAM」とハイフン入で表示されている点も興味深い。

 

ストリートビュー

地理院地図

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105「緑川ダム」

20100403/20140914熊本県美里町にて撮影

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◯白看の種類:105「緑川ダム」(単柱式)

 

◯白看が設置されている道路:美里町道(国道218号線旧道)

 

◯概要:熊本県美里町の山中に残る単柱式の105。表示が「ダム」の白看はいくつかあり、今でも残っているのは105「佐久間ダム」(静岡県)、103-C「永瀬ダム」(高知県)、104「二川ダム/箕島」「二川ダム/高野山」(和歌山県)などがある。設置されているのは美里町総合運動公園や花定野集落との分岐点。おそらくどちらのルートを通っても緑川ダムには行けそうだが、古い地形図や空中写真を見ると手前の道路が旧国道のである。なお、旧国道と緑川ダムへの分岐はここから300mほど北側にある。

表示されている「緑川ダム」は1968(昭和43)年着工、1971(昭和46)年3月に完成した緑川の洪水調節・灌漑・発電用に設置された重力式コンクリートダム。黒四などの大型土木施設が観光地だった時代、同様に緑川ダムの観光開発を狙って設置されたものなのだろうか。

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裏面は補強鋼なしの一枚鉄板もの。円形の支柱の中央部に小さな金具で取り付けられていることがわかる。しかし、ダムの完成時期は既に白看末期であり、このようなシンプルな形式で設置されることは少し考えにくい。完成に先立って、工事事務所が設置された1966(昭和41)年頃の設置ではないかと推測される。

 

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